第38話 魔法の色
翌朝。
朝食を終えたココアは、食器が下げられるのを待ってからヒルダを呼んだ。
「ヒルダ。」
「はい、ココア様。」
「水魔法、見せて。」
「……。」
ヒルダが無言でセバスを見る。
セバスは紅茶を置き、眼鏡を押し上げた。
「わたくしは、ココア様が朝食をすべて召し上がられたことを確認いたしました。」
「私も、ちゃんと食べた。」
「ええ。存じております。」
「だから大丈夫。」
「朝食を召し上がることと、安全な実験であることは別問題でございます。」
「……。」
「とはいえ。」
セバスがヒルダを見る。
「食事を抜いて研究へ走らなかった点については、成長されましたな。」
「そこ?」
「大切なことでございます。」
ヒルダも頷いた。
「非常に。」
「二人とも、マーサに影響されてない?」
「良い影響でございます。」
「……。」
◇
屋敷の庭。
ヒルダが右手を差し出した。
「小さなもので、よろしいのですね?」
「うん。見るだけ。」
「触りませんね?」
「触らない。」
「結合にも。」
「触らない。」
「絶対に?」
「……絶対。」
「今の間は何でございますか?」
「覚悟。」
「何のです?」
「触らない覚悟。」
「最初からお願いいたします。」
ようやくヒルダが頷いた。
「では。」
掌の上で、空気が僅かに揺れた。
何もなかった場所へ水が集まり、小さな球になる。
「すいへー……りーべー……。」
ココアの視界が切り替わる。
青い元素。
白から淡い青の結合。
水を構成する水素と酸素。
それ自体は分かる。
三歳の頃から、何度も見てきたものだ。
けれど。
「……。」
水だけではない。
水球が形を取る、その瞬間。
ほんの僅かに。
青でも白でもない何かが重なった。
「……あった。」
ヒルダの眉が動く。
「何が、でございますか?」
「昨日見つけた色。」
「旧河道の土で見えていたものですか?」
「うん。」
セバスの表情も変わった。
「ヒルダ。もう一度お願い。」
「承知いたしました。」
水球が崩れ、芝へ落ちる。
数秒置いて、もう一度。
ヒルダの掌に水が集まった。
「……やっぱり。」
同じだ。
昨日、旧河道の土に重なっていたもの。
水ではない。
水素でも酸素でもない。
既知の元素や結合とは違う。
「ヒルダ。」
「はい。」
「私、これ前にも見てる。」
記憶が繋がった。
◇
三歳の頃。
『ヒルダは?』
『魔法使える?』
『水も見たい!』
◇
初めてヒルダに水魔法を見せてもらった日。
ココアは夢中で水ばかり見ていた。
魔法で生まれた水は普通の水と違うのか。
水素と酸素はどうなっているのか。
そこしか見ていなかった。
「……あの時も、あった。」
「わたくしには、何のお話か分かりかねますが。」
「私も、あの時は分かってなかった。」
見えていなかったわけではない。
見えていたのに、意味のある情報として認識していなかった。
ココアは研究帳を開く。
『水魔法――旧河道と同じ色』
横からセバスが覗き込んだ。
「ココア様。」
「なに?」
「それが、魔力なのではございませんか?」
ペンが止まる。
「……可能性はある。」
「では。」
「でも、まだ決めない。」
昨日の頁を開く。
『旧河道』
『通常と異なる色』
『意味――不明』
「魔法を使ってない土にもあった。」
「なるほど。」
「だから、水魔法にあるだけじゃ魔力だって言えない。」
セバスが静かに頷いた。
「では、比較が必要でございますな。」
ココアが顔を上げる。
「先生。」
「はい。」
「今、ちょっと研究者っぽかった。」
「教育係でございます。」
「惜しい。」
「何がでございますか。」
◇
「土魔法?」
少しして呼ばれてきたノエルが首を傾げた。
「うん。」
「昨日まで土を調べてなかった?」
「調べてた。」
「今日は魔法?」
「土を調べてたら、魔法が出てきた。」
「……。」
「私も困ってる。」
ノエルはしばらくココアを見つめた。
「やっぱり、ココアの研究って変。」
「八回目。」
「まだ数えてるんだ。」
「うん。」
ノエルが笑いながら地面へ手を向ける。
「じゃあ、やるよ。これくらいでいい?」
「小さくていい。」
土が僅かに震え、柔らかな塊が地面から持ち上がる。
「すいへー……りーべー……。」
ココアは見る。
土。
砂。
水分。
含まれている元素と、その結合。
そして。
「……ある。」
同じだった。
ヒルダの水魔法にも。
ノエルの土魔法にも。
あの色が重なっている。
「また見えてる?」
「うん。」
「いつものと違う?」
「違う。元素じゃない。結合とも違う。」
「昨日の土にあったやつ?」
「それ。」
「それが私の魔法にもあるの?」
「うん。」
「なんで?」
「分からない。」
「また?」
「また。」
研究帳へ書き足す。
『水魔法――ある』
『土魔法――ある』
『旧河道の土――ある』
三つ。
属性も違う。
起きている現象も違う。
それなのに、同じ何かが見える。
魔力。
その言葉は当然浮かぶ。
だが。
もしこれが魔力なら。
なぜ魔法を使っていない地面にも存在するのか。
そして。
ココア自身は――。
◇
六歳。
魔力判定。
零。
◇
魔法は使えない。
それなのに。
三歳のあの日。
兄の暴走した火球へ、確かに触れた。
炎を支える何かを切ったのか。
魔法そのものへ触れたのか。
まだ分からない。
「ココア様?」
ヒルダの声で我に返った。
「大丈夫でございますか?」
「うん。」
「続けますか?」
「……もう少し。」
「ココア。」
ノエルが遮った。
「なに?」
「畑。」
「……。」
「昨日、確かめるって言ってた。」
「……。」
「魔法は逃げないよ。」
研究帳を見る。
ノエルを見る。
「地下水は動く。」
「じゃあ行くよ。」
「うん。」
セバスが小さく頷いた。
「大変よいご友人を持たれましたな。」
「先生。」
「はい。」
「私もそう思う。」
「ココア、早く!」
すでに庭の向こうまで走ったノエルが振り返った。
「待って!」
「走らない!」
「ヒルダ。」
「転ばれます。」
「……はい。」
◇
その日の調査は、昨日より範囲を広げた。
旧河道に沿って何か所も土を採る。
表面。
少し下。
さらに深い場所。
深さを揃え、量を揃え、同じ方法で比較する。
そして今日は、ココアたちだけではなかった。
「水、線までだぞ!」
「分かってる!」
「混ぜるの二十回!」
「十九、二十。終わり!」
「待つ時間、誰が見てる?」
「俺だ!」
「その布違うぞ。同じの使えって書いてあるだろ!」
農家たちが、自分たちで動いていた。
土を採る者。
水を量る者。
記録する者。
皿を並べる者。
分からなければ隣に聞く。
それでも分からなければノエルへ聞く。
ノエルでも判断できなければ、最後にココアへ来る。
少し離れた場所から、その様子を眺めていると。
ノエルが隣へ来た。
「ココア。」
「なに?」
「また、『私、何もしてない』って思ってる?」
「……ちょっと。」
「じゃあ成功じゃん。」
ココアは農家たちを見る。
誰も、ココアが来るまで手を止めていない。
自分たちで調べ。
比べ。
考えている。
「うん。」
自然に笑った。
「成功。」
◇
午後。
地図には、新しい情報が増えていた。
雨のあと、水が残りやすい場所。
深いところほど湿っている場所。
水に溶けるものが多い場所。
そして、バルドが覚えている昔の川筋。
「……ここ。」
ノエルが地図を指した。
「なに?」
「たぶん、こっち。」
指が畑と畑の間を進む。
「水の道。」
「どうして?」
「この畑、雨の次の日も乾くの遅いから。」
別の場所を指す。
「ここは、お父さんが昔から春に深く耕すなって言ってる。」
「なんで?」
「下がずっと湿ってるから。」
さらに指が移る。
「こっちは去年、作物の根が横に広がってた。」
「下に伸びなかった?」
「うん。お父さんが変だって言ってた。」
ノエルは地図へ線を引いた。
「だから、たぶん。」
「この下、水が通ってる。」
ココアはノエルを見た。
「ノエル。」
「なに?」
「私、まだ見てないよ?」
「うん。」
「元素視覚、使ってない。」
「うん。」
「それでも分かったの?」
「たぶん。」
ノエルが少し得意そうに笑う。
「だって、畑は見てるから。」
ココアは何も言わず、地面へ視線を落とした。
「すいへー……りーべー……。」
視界が変わる。
土の湿り方を追う。
ノエルが引いた線の方向へ。
地下の水分が連続している。
そこに溶けているものも、似た傾向で続いていた。
「……合ってる。」
「ほんと?」
「うん。」
「やった!」
ノエルが両手を上げた。
「見えなくても分かった!」
「うん。」
ココアには。
それが、自分だけに見えるものを見つけた時より嬉しかった。
同じものを見る必要はない。
同じ知識を持つ必要もない。
違うものを見て。
違うことを知っていて。
それでも。
同じ答えへ辿り着ける。
「ノエル。」
「なに?」
「すごい。」
「今さら?」
「二回目。」
「それも数えてるの?」
「数えてる。」
◇
「なるほどな。」
地図を見ていたバルドが低く呟いた。
太い指で、ノエルの引いた線をなぞる。
「昔の川筋に近い。」
「同じ?」
「全部じゃない。だが、重なる場所は多い。」
ココアは昨日見た上流を思い出した。
三年前の大雨。
流された岩。
堆積した土砂。
倒木。
変わった川筋。
「川の形が変わって。」
「地面の下の水まで変わった?」
ノエルが聞く。
「可能性はある。」
ココアは地図上の問題畑を見る。
「でも。」
「川の水そのものは、塩が多くなかった。」
今朝ではなく。
昨日。
自分たちが確認したことだ。
「じゃあ、川が塩を運んできたんじゃない?」
「少なくとも。」
「そのまま畑に運んだわけじゃなさそう。」
ココアは地面へ目を落とした。
「水が抜けにくくなって。」
「地下の水が高いところまで来る。」
「その水に何かが溶けてたら。」
「水だけ乾いて。」
「溶けてたものは、土に残る。」
「塩も?」
「塩も。」
一度なら僅かでも。
何度も繰り返せば。
一年。
二年。
三年。
少しずつ。
土に積み重なる。
バルドが腕を組んだ。
「なら、水を逃がせばいいのか。」
以前なら。
ココアはすぐ頷いていたかもしれない。
排水路を掘る。
水を流す。
終わり。
けれど。
セバスに言われたことを覚えている。
誰の畑か。
誰の収穫か。
誰の生活がかかっているのか。
「どこに?」
バルドが眉を上げた。
「何がだ?」
「逃がした水。」
「どこに流す?」
ココアは地図を指す。
「こっちには畑がある。」
「こっちには家。」
「塩が入った水なら。」
「別の場所に流しただけじゃ駄目。」
バルドが黙った。
やがて、僅かに口元を上げる。
「少しは考えるようになったな。」
「最初から考えてる。」
「なら、もっと考えろ。」
「考えてる。」
「もっとだ。」
「バルドさん、厳しい。」
「畑だからな。」
「……うん。」
ココアも頷いた。
「畑だから。」
だから。
まず小さく試す。
水がどこへ動くのか。
何が変わるのか。
その先に誰がいるのか。
全部見てから。
広げる。
◇
夕方。
叔父の屋敷。
「試したい。」
ココアは机へ地図を広げた。
問題の大きい一帯。
その中でも、水の流れを確認しやすい場所へ一本の線を引く。
「いきなり全部は直さない。」
「まず一本。」
「短い排水路を作って。」
「水がどこから来て。」
「どこへ流れるかを見る。」
叔父が地図を覗き込んだ。
「下流は?」
「先に確認する。」
「人は?」
「必要。」
「期間は?」
「……。」
「金は?」
「……。」
ココアはゆっくり横を向く。
セバスが立っていた。
「先生。」
「はい。」
「助けて。」
セバスが眼鏡を押し上げる。
「ようやく、正しい教育係の使い方を覚えられましたな。」
「先生、嬉しそう。」
「気のせいでございます。」
「口元。」
「気のせいでございます。」
叔父が笑った。
「よし。」
「試験として認める。」
地図を指で叩く。
「人も出す。」
「必要な道具と金も見積もれ。」
「ただし。」
「勝手に広げるな。」
「一本だけ。」
「一本だけだ。」
「途中でもっと掘りたくなっても。」
「……一本だけ。」
「今、間があったな。」
「なかった。」
「セバス。」
「ございました。」
「先生。」
「事実でございます。」
◇
その夜。
ココアは机に研究帳を広げていた。
左の頁には。
『地下水』
三年前の大雨。
変わった川筋。
旧河道。
湿った深い土。
問題畑。
右の頁には。
『魔法』
ヒルダの水魔法。
ノエルの土魔法。
そして。
『同じ色』
本来なら。
別々の研究だった。
領地の水と。
魔法。
関係なんてないはずだった。
机には、三つの土が並んでいる。
問題畑。
旧河道。
昨日、バルドと上流へ行った時に採ったもの。
ヒルダは少し離れた椅子に座っている。
「見るだけですよ。」
「うん。」
「触りません。」
「うん。」
「結合も。」
「触らない。」
「よろしい。」
「すいへー……りーべー……。」
視界が切り替わる。
青。
白。
淡い青。
そして。
あの色。
問題畑。
薄い。
旧河道。
ある。
上流側。
「……こっちも。」
ココアの手が止まった。
もう一度。
最初から見る。
結果は同じ。
研究帳へ書く。
『問題畑――薄い』
『旧河道――確認』
『上流側――確認』
『強さに差?』
最後に、大きな疑問符。
三か所だけ。
これで何かを決めてはいけない。
けれど。
今日分かったことが、もう一つある。
川の水。
ナトリウムも塩素も。
異常に多くはなかった。
普通の水だった。
なのに。
畑には塩がある。
「……先生。」
帳簿を整理していたセバスが顔を上げた。
「はい。」
「川の水は、普通だった。」
「左様でございましたな。」
「でも、畑には塩がある。」
「はい。」
ココアは地図を引き寄せた。
現在の川。
旧河道。
問題畑。
指で繋ぐ。
「だったら。」
「水が途中で変わってる。」
セバスの視線も地図へ落ちる。
「変わる、とは?」
「何かを溶かしてる。」
「どこかで。」
「何を、でございますか?」
「分からない。」
「どこで?」
「それも分からない。」
ココアは少しだけ笑った。
「分からないこと、増えた。」
「嬉しそうでございますな。」
「うん。」
研究帳の新しい頁を開く。
『地下水は、どこを通っている?』
その下。
『塩は、どこから来た?』
そして。
少し離して。
『あの色は、何?』
三つの疑問。
ココアは、最初の一つへ線を引いた。
地上を流れる川なら。
見れば分かる。
でも。
今度追うのは。
目には見えない水だ。
土の下を流れ。
どこかで何かを拾い。
三年間かけて。
畑へ運んできた水。
「明日。」
「水を追う。」
ココアの指が。
地図の上を進む。
畑から。
旧河道へ。
そして。
その先へ。
まだ誰も知らない。
塩が。
どこから来ているのか。
でも。
水は必ず。
どこかを通ってきている。




