第40話 塩
「塩だ。」
翌朝。
低湿地の水際に残った白いものを前に、ココアはそう言った。
ノエルが隣でしゃがみ込む。
「昨日は分からないって言ってたのに?」
「昨日は、ちゃんと調べてなかったから。」
「今日は分かるの?」
「うん。知ってるものだから。」
白い結晶。
元素視覚で見れば、ナトリウムと塩素が多い。
もちろん、それだけではない。
いくつか別のものも混じっている。
「じゃあ食べられる?」
「まだ駄目。」
「塩なのに?」
「塩だから食べられるんじゃないの。」
「?」
「食べても大丈夫な塩だから、食べられるの。」
「同じじゃないの?」
「違う。」
「難しい。」
「大事。」
ノエルが伸ばしかけた指を引っ込める。
「ココアは触る?」
「触らない。」
「舐める?」
「舐めない。」
「本当に?」
「……なんで疑うの?」
「昨日、水飲みそうだったから。」
「飲まないって言った。」
「バルドじいちゃんにも止められてた。」
「止められただけ。」
少し離れたところで、バルドが鼻を鳴らした。
「六つの子供が二人揃って、得体の知れんもんを舐める相談をするな。」
「してない!」
「してないよ!」
「息だけは合うな。」
ココアとノエルが顔を見合わせた。
ヒルダが小さく笑う。
セバスは白い結晶を見たまま聞いた。
「ココア様。」
「なに?」
「こちらが塩であることと、ヨハン殿の畑を傷めていたことは、同じ問題と考えてよろしいのでしょうか。」
「たぶん。」
「たぶん、でございますか。」
「地下水に溶けてた塩類が土に残って、それが増えてた。そこはかなり合ってると思う。」
「では。」
「でも、畑が悪くなった理由が全部これだけとは限らない。」
ココアは白い結晶から、ヨハンの畑の方角へ目を向けた。
「だから。」
「畑は畑で、最後まで確かめる。」
セバスが静かに頷く。
「では、こちらは?」
「こっちは――」
ココアは白い結晶を見る。
「使えるか、調べる。」
「売る、ではなく?」
「まだ売れない。」
「珍しいですな。」
「先生。」
「はい。」
「私だって、何でもすぐ売るわけじゃない。」
「眼鏡。」
「必要だった。」
「マヨネーズ。」
「研究費。」
「やはりでございますな。」
「……今回は、ちゃんと調べてから。」
◇
昼前。
屋敷の一室が、臨時の研究室になっていた。
机には、地下水から得た白い析出物。
水。
布。
容器。
浅い皿。
それから、普段使われている領外産の塩。
「すいへー……りーべー……。」
視界が切り替わる。
まず、普段の塩。
次に、地下水から得たもの。
「……やっぱり違う。」
「何が?」
ノエルが覗き込む。
「こっちの方が、いろいろ混じってる。」
「じゃあ駄目?」
「そのままは嫌。」
「捨てる?」
「それも嫌。」
「じゃあどうするの?」
「分ける。」
ココアは白いものを水へ溶かした。
しばらく置く。
沈むものを分ける。
布で濾す。
濃くする。
出てきた結晶と、最後まで残った液を分ける。
さらにもう一度、溶かしてやり直す。
一回目。
「まだ。」
二回目。
「もう少し。」
三回目。
「……うん。」
皿の上に残った白い結晶を見る。
最初より。
ずっと単純になっている。
「できた?」
「塩にはなった。」
「食べられる?」
「まだ。」
「また?」
「普段の塩と比べる。」
「長い。」
「ここは長くていいの。」
ノエルが頬を膨らませる。
「畑は早く直したのに。」
「畑は困ってる人がいたから。」
「塩は?」
「急がなくていい。」
ココアは、もう一度結晶を見る。
「急がなくていいものまで急いだら。」
「間違えるから。」
ノエルが少しだけ黙った。
「……ココアって、研究になると何でも急ぐのかと思ってた。」
「急ぐよ。」
「今、急いでないじゃん。」
「食べ物だから。」
「?」
「誰かが食べるから。」
ココアは当たり前のように言った。
「そこは、ちゃんとする。」
◇
「ココア様。」
「なに?」
「昼食でございます。」
「あとちょっと。」
「ココア。」
「……なに?」
「研究帳。」
「閉じる。」
「座る。」
「分かってる。」
「今日は私、まだ何も言ってないよ。」
「顔が言ってた。」
ノエルが笑う。
セバスが満足そうに頷いた。
「良いご友人を持たれましたな。」
「最近、先生が二人いる。」
「光栄です。」
「褒めてない。」
◇
午後。
ココアは小瓶を持って、マーサの食堂を訪れた。
昼時を過ぎた店内には、まだ煮込み料理の匂いが残っている。
「マーサさん。」
「まあ。ココア様。」
「お願いがある。」
「お食事でしたら――」
「塩。」
「……お塩?」
ココアが小瓶を置く。
「作った。」
「昨日まで畑を調べていらしたと思うのですが。」
「畑を調べてたら出てきた。」
「左様でございますか……。」
マーサがセバスを見る。
セバスは静かに頷いた。
「わたくしも、その説明しかできません。」
「なるほど。」
マーサは小瓶を見る。
「こちらを、どうすれば?」
「普段使ってる塩と比べてほしい。」
「舐めればよろしいですか?」
「料理で。」
「なぜでしょう?」
「塩だけ舐めるのと、料理に使うのは違うから。」
「まあ。」
マーサの表情が少し変わった。
「では、料理人の仕事でございますね。」
「うん。」
「お願い。」
◇
しばらくして。
二つの小皿が運ばれてきた。
同じ材料。
同じ調理。
違うのは、塩だけ。
ココアは両方を食べる。
ノエルも食べる。
マーサも確かめた。
「……違う。」
「分かる?」
「少し。」
ノエルは迷わず一方を指した。
「私はこっち。」
「私の?」
「うん。」
「なんで?」
「こっちの方が好き。」
「理由は?」
「美味しい。」
「……。」
「駄目?」
「駄目じゃない。」
ココアは研究帳へ書く。
『ノエル――こちらが好き』
『理由――美味しい』
「それでいいの?」
「人が食べるものだから。」
「?」
「数字だけじゃ決まらない。」
マーサも頷いた。
「普段のものより、少し柔らかい味に感じますね。」
「柔らかい?」
「はい。料理によっては、こちらの方が合うかもしれません。」
「料理によって。」
ココアが書き込む。
「ただし。」
マーサが続けた。
「安全であることが前提でございます。」
「うん。」
「そこは何度でも確認する。」
「よろしい。」
マーサが微笑んだ。
「ココア様は、食べる方のことも考えてくださるのですね。」
「?」
「研究だけではなく。」
「……。」
ココアは少し考える。
「食べる人がいるなら。」
「考えるよ。」
「そうですか。」
マーサはそれ以上言わなかった。
ただ。
少しだけ嬉しそうだった。
◇
「先生。」
「はい。」
「この塩。」
「はい。」
「いくら?」
食堂を出た直後だった。
セバスが足を止める。
「何が、でございましょう。」
「領地で買ってる塩。」
「価格でございますか?」
「うん。それと、一年にどれくらい買ってる?」
「ココア様。」
「なに?」
「研究者のお顔ではございませんな。」
「どんな顔?」
「商人でございます。」
「違う。」
「では?」
「研究費が欲しい人。」
「もっと危険でございました。」
ノエルが首を傾げる。
「塩が研究費になるの?」
「なるかもしれない。」
「どうやって?」
「今まで外から買ってたなら、自分たちで作れば、その分のお金が外へ出なくなる。」
「それで?」
「余ったら売れるかもしれない。」
「それで?」
「研究費が増える。」
「結局そこなんだ。」
「大事だから。」
ココアは真剣だった。
◇
夕方。
叔父の執務室。
机の上に小瓶が置かれた。
「塩?」
「うん。」
「昨日の地下水から?」
「うん。」
「もう?」
「知ってるものだったから。」
「……そうか。」
叔父は小瓶を見る。
「食えるのか?」
「少量だけ試した。」
「誰が?」
「私とノエルとマーサさん。」
「おい。」
「ちゃんと普段の塩と比べた。」
「子供二人を先に食わせるな!」
「私も子供。」
「そこじゃない!」
叔父が額を押さえる。
「まだ安全だって決めたわけじゃない。」
「決めてないのか。」
「うん。だから大量には食べない。」
「だったらノエルを巻き込むな。」
「私が食べるって言ったんだよ。」
ノエルが口を挟む。
「ノエル。」
「なに?」
「援護しなくていい。」
「だって本当だもん。」
「そこじゃない。」
叔父がまた額を押さえた。
「……お前ら、仲良くなったな。」
「うん。」
「うん。」
即答が重なった。
「そこも息が合うのか。」
叔父がため息をついた。
「それで?」
「この領地。」
「塩を外から買ってる。」
「当たり前だ。」
「年間でどれくらい?」
「こちらに。」
セバスが帳簿を置いた。
ココアの目が輝く。
「先生。」
「はい。」
「仕事が早い。」
「ココア様がお尋ねになることは予想しておりました。」
「すごい。」
「長い付き合いでございますので。」
帳簿を開く。
購入量。
価格。
運搬費。
ココアは数字を追った。
そして。
地下水の小瓶を見る。
畑を守るためには。
どのみち外へ出さなければならない水。
その中に。
今まで金を払って買っていたものがある。
「……もったいない。」
「何が?」
「今まで捨ててた。」
「知らなかったんだから仕方ないだろ。」
「これからは、すぐ捨てない。」
「全部使えるとは限らんぞ。」
「うん。」
「場所によって中身も違うと思う。」
「なら?」
「調べる。」
「塩を取るのに向いてる水だけ使う。」
「それから?」
「まず領地で使う。」
「売らないのか?」
ココアが叔父を見る。
「外から買わなくてよくなる方が先。」
「……ほう。」
「領地のお金が外へ出なくなる。」
「その後は?」
「余ったら売る。」
「結局売るのか。」
「だって。」
「研究費か。」
「うん。」
即答だった。
叔父が笑う。
「お前は領地を豊かにしたいのか、研究がしたいのか、どっちなんだ。」
「研究したい。」
「即答するな。」
ココアは少し考えた。
ヨハンの畑。
三年間。
何をしても駄目だった場所。
ノエルが畑を見た。
バルドが昔の土地を教えた。
農家たちが水路を掘った。
叔父が人を出した。
セバスが金を数えた。
そして。
畑を苦しめていた水から。
今度は塩が取れた。
「研究すると。」
「うん?」
「困ってることが、一個ずつ減る。」
叔父は黙った。
「それで。」
「みんなが前より困らなくなって。」
「領地にお金も残ったら。」
ココアは笑った。
「もっと研究できる。」
「結局そこへ戻るのか。」
「うん。」
「困った姪だ。」
「駄目?」
「いや。」
叔父は帳簿を閉じた。
「続けろ。」
「いいの?」
「小規模でな。」
「地下水の量。」
「取れる塩の量。」
「品質。」
「全部揃えてからだ。」
「うん!」
「あと。」
「なに?」
「畑を忘れるな。」
「忘れてない。」
ココアは、すぐ答えた。
「ヨハンさんの畑。」
「ちゃんと最後まで見る。」
◇
それから数日。
一本だった排水路は。
本当に一本のままだった。
「偉い。」
ノエルが言った。
「約束だから。」
「毎日、増やしたそうに見てたけど。」
「見ただけ。」
「三回くらい測ってたよね。」
「測っただけ。」
「棒も置いてた。」
「目印。」
「増やす気だった?」
「……調査。」
「怪しい。」
「ノエル。」
「なに?」
「先生みたいになってきた。」
「やった。」
「喜ぶところ?」
◇
ココアたちは。
塩だけを調べていたわけではない。
ヨハンの畑。
排水した場所から、同じ深さで土を採る。
同じ量。
同じ水。
同じ方法。
「すいへー……りーべー……。」
ココアが目を開く。
ノエル。
ヨハン。
バルド。
みんなが待っている。
「……減ってる。」
「本当か?」
ヨハンが聞いた。
「うん。」
「まだ多い。」
「でも、前より減ってる。」
ノエルの顔が明るくなる。
「お父さん。」
「なんだ。」
「減ってるって。」
「聞こえてる。」
「じゃあ、また作れる?」
「まだ決まってない。」
「でも。」
ノエルは畑を見る。
「前は。」
「何が悪いのかも分かんなかったじゃん。」
ヨハンは答えなかった。
長い間。
ただ畑を見ていた。
やがて。
「……そうだな。」
小さく。
そう言った。
その声が。
少しだけ軽かった。
ココアは。
それを聞いて。
嬉しくなった。
「次は土を洗う。」
「前にやったやつか。」
「うん。」
「地下から塩が入り続けるのを減らしながら。」
「今度は、残ってる分を外へ出す。」
ヨハンが畑を見る。
「来年。」
「また、ここで作れるか?」
ココアは。
すぐには答えなかった。
絶対。
その言葉を簡単に使わないことを。
この土地で覚えた。
「絶対は言えない。」
「そうか。」
「でも。」
ココアも畑を見る。
「作れるところまで。」
「みんなで直す。」
ヨハンが頷く。
「……そうか。」
ノエルは。
父親より先に笑っていた。
◇
その夜。
セバスが一冊の帳簿を持ってきた。
「ココア様。」
「なに?」
「試算が出ました。」
「塩?」
「左様でございます。」
ココアが椅子から立ち上がる。
「どれくらい?」
「まだ試験段階でございます。」
「地下水の量も一定とは限りません。」
「すべてを利用できる保証もございません。」
「うん。」
「それでも。」
「現在の結果だけで試算すれば――」
帳簿が開かれる。
数字。
ココアは読む。
もう一度。
読む。
「……これ。」
「はい。」
「本当に?」
「あくまで試算でございます。」
「でも。」
「現在購入している塩の一部を。」
「領内で賄える可能性はございます。」
ココアの視線が。
帳簿の一番下へ移った。
外へ出なくなるかもしれない金額。
そして。
顔を上げる。
「先生。」
「駄目です。」
「まだ何も言ってない!」
「研究費でございましょう。」
「……半分。」
「駄目です。」
「三割。」
「交渉を始めないでください。」
「二割。」
「ココア様。」
「一割。」
「値切ればよいというものではございません。」
ココアは頬を膨らませた。
セバスが眼鏡を押し上げる。
「ただし。」
「?」
ココアが顔を上げた。
「領地へ利益をもたらした者へ。」
「正当な対価を支払うことまで否定するつもりはございません。」
「……対価?」
「はい。」
「私に?」
「最終的には伯爵様と、こちらの領主様がお決めになることでございますが。」
「研究費にしていい?」
「まだ一銭も得ておりません。」
「得たら?」
「気が早いですな。」
「得たら?」
「……ご相談には乗りましょう。」
「ほんと?」
「ええ。」
ココアはすぐに研究帳を開いた。
ぱらぱらと。
ページをめくる。
一枚。
二枚。
三枚。
セバスが覗き込む。
『研究したいもの』
その下には。
びっしりと。
文字が並んでいた。
「……ココア様。」
「なに?」
「研究費。」
「うん。」
「まったく足りませんぞ。」
ココアは。
しばらく研究帳を見つめた。
畑。
塩。
眼鏡。
マヨネーズ。
研究をすると。
何かが分かる。
分かったことを。
みんなで使える形にすると。
少しだけ。
誰かが困らなくなる。
そして。
お金も増える。
なら。
ココアは顔を上げた。
笑う。
「じゃあ。」
「はい。」
「もっと領地を豊かにしないと。」




