第37話 下から来る水
翌朝。
「ココア!」
「こっち!」
川辺で、ノエルが大きく手を振っていた。
その足元には、三つの容器が並んでいる。
「川の水。」
「昨日、バルドじいちゃんが昔は川だったって言ってたところの土。」
「あと、川から離れたところの土。」
ココアは足を止めた。
「……全部、採ったの?」
「うん。」
「量は?」
「同じ。」
「土に入れる水は?」
「同じ。」
「混ぜる回数。」
「二十回。」
「待つ時間。」
「ちゃんと待った。」
「布は?」
「同じ。」
「採った深さは?」
「同じ。」
「……。」
完璧だった。
「ノエル。」
「なに?」
「すごい。」
「今さら?」
胸を張る。
「昨日、ココアが比べるって言ってたでしょ。」
「だから、同じにした。」
「……うん。」
「私、一人でもできたよ。」
ココアは三つの容器を見た。
少し前まで。
土を調べるのは、自分の仕事だった。
自分にしか見えないものを見る。
自分で比べる。
自分で考える。
でも。
今は違う。
「できてる。」
「ほんと?」
「うん。ちゃんと。」
「やった。」
ノエルが、ぱっと笑った。
◇
まずは、川の水。
ココアは川辺へしゃがみ込み、流れる水へ視線を落とした。
「すいへー……。」
「りーべー……。」
視界が切り替わる。
水。
石。
砂。
泥。
その中に含まれるものを、一つずつ追う。
「……どう?」
ノエルも隣へしゃがんだ。
「待って。」
もう一度見る。
ナトリウム。
塩素。
どちらもある。
けれど。
「多くない。」
「え?」
「少なくとも、ヨハンさんの畑をあんなふうにするほどじゃない。」
ノエルが川を見る。
「じゃあ、川じゃないの?」
「……まだ分からない。」
ココアも上流へ目を向けた。
「でも。」
「今流れてる川の水そのものが、すごく塩辛いわけじゃない。」
後ろから、セバスの声。
「昨日は川を疑っておられましたな。」
「うん。」
「では、外れでございますか?」
「違う。」
「違う?」
「川の水そのものじゃないかもしれないって分かった。」
ココアは振り返る。
「それも、一個分かったこと。」
セバスが眼鏡を押し上げた。
「外れた仮説も、成果であると。」
「うん。」
研究帳を開く。
『現在の川の水――塩類、目立って多くない』
書き終える。
「じゃあ、次。」
◇
昨日。
バルドが指した場所。
昔は川が流れていたという土地には、今では草が生えている。
「ここ。」
ノエルが地面を指した。
「昨日のところ。」
「うん。」
ココアもしゃがむ。
「すいへー……。」
「りーべー……。」
土を見る。
無数の元素。
見慣れた世界。
――のはずだった。
「……ん?」
ココアの表情が止まる。
「どうした?」
少し離れていたバルドが聞いた。
「……もう一回。」
瞬きをする。
見る。
土。
水分。
その中に溶けたもの。
そして。
その奥。
ほんの僅かに。
違う。
「……何これ。」
「何?」
ノエルが覗き込む。
「色?」
「たぶん。」
「何色?」
「分からない。」
「色なのに?」
「今まで見た覚えがないから。」
元素そのものの色とは違う。
結合の見え方とも少し違う。
何かが。
薄く重なっている。
そんな見え方だった。
「ココア様。」
セバスの声が少し低くなる。
「昨日も見えておりましたか?」
「分からない。」
「いつから?」
「分からない。」
「何を示しているのでございます?」
「分からない。」
「……。」
「先生。」
「はい。」
「質問が多い。」
「ココア様にだけは言われたくございません。」
ノエルが吹き出した。
ココアはもう一度、地面を見る。
「でも。」
「ある。」
研究帳を開く。
『旧河道』
『通常と異なる色』
『意味――不明』
書く。
「昔、川だったから?」
ノエルが聞いた。
「決めない。」
「なんで?」
「今、ここで見えたからって、それが昔の川と関係あるとは限らないから。」
ココアは少し離れた土地を指した。
「比べる。」
◇
三か所。
旧河道。
現在の川辺。
そこから離れた土地。
同じ深さから土を採る。
「ここまで?」
「うん。」
同じ量。
同じ水。
二十回混ぜる。
待つ。
「まだ?」
「まだ。」
「もういい?」
「まだ。」
「ココア。」
「なに?」
「これ、嫌い。」
「私も。」
セバスが小さく咳払いした。
「待つことも研究でございます。」
「知ってる。」
「以前は容器を睨んでおられましたが。」
「昔の話。」
「数日前でございます。」
「昔。」
「やっぱり変。」
「七回目。」
「増えた。」
「増えたよ。」
◇
時間が来た。
濾す。
浅い皿へ、同じ量。
水分を飛ばす。
◇
「……違う。」
最初に言ったのはノエルだった。
三枚の皿。
残ったものの量が、少しずつ違う。
ただし。
ヨハンの畑ほど極端ではない。
「こっちが多い。」
ノエルが旧河道の皿を指す。
「うん。」
「じゃあ塩?」
「まだ分からない。」
「また?」
「また。」
ココアは皿に残ったものを見る。
「水に溶けてた何かが、ここには少し多い。」
「でも、それがさっきの色と同じ意味かは分からない。」
研究帳へ。
『旧河道――水溶性成分、やや多い』
『新しい色との関係――不明』
横からバルドが覗く。
「分からんばかりだな。」
「うん。」
「それで楽しいのか?」
「うん。」
即答だった。
バルドが、ほんの少し口元を緩める。
「やっぱり厄介だな。」
「褒めてる?」
「褒めてない。」
◇
その時。
ノエルが旧河道の地面へ手をついた。
「……あれ?」
「なに?」
「ここ。」
指先で土を触る。
「冷たい。」
「川の近くだから?」
「違う。」
答えたのはバルドだった。
「昔から、この辺りは乾きにくい。」
「昔から?」
「ああ。」
「雨が降らん日でも、少し掘ると湿っていることがある。」
ココアの目が止まった。
「……少し掘ると?」
地面を見る。
「バルドさん。」
「なんだ。」
「もう少し掘っていい?」
「畑でもない。構わん。」
ノエルが小さな鍬を取った。
「私やる。」
「お願い。」
◇
表面。
少し下。
さらに、その下。
三つの深さから土を採った。
「今度は深さを比べる。」
同じ量。
同じ水。
同じ回数。
同じ時間。
同じ布。
また待つ。
◇
「……。」
ノエルが皿を見比べた。
「下の方が多い。」
「うん。」
表面。
少し下。
もっと下。
深くなるほど、水を飛ばしたあとに残るものが増えている。
ココアは土へ視線を落とした。
「すいへー……。」
「りーべー……。」
見る。
水分。
その中に溶けたもの。
深い。
湿っている。
水に溶けたものも多い。
「……。」
少しずつ。
形になっていく。
「ココア?」
「上からじゃない。」
「え?」
まだ断定はできない。
だから。
言葉を選ぶ。
「もし。」
「下の土の方に、水に溶けてるものが多くて。」
「下の方が、ずっと湿ってるなら。」
指先を地面へ向ける。
「水が。」
「上から来てるんじゃなくて。」
「下から来てるのかもしれない。」
「……下から?」
ノエルも地面を見る。
「水って雨じゃないの?」
「雨もある。」
「でも、地面の下にも水はある。」
ココアは川を見る。
昨日。
上流で見つけた。
変わった川筋。
三年前の大雨。
昔とは違う流れ。
「もし。」
「川の形が変わって。」
「地面の下の水の高さとか、流れ方まで変わったなら……。」
そこで止める。
「まだ仮説。」
「……また?」
「また。」
「どうするの?」
「確かめる。」
研究帳へ。
『地下から水が上がっている可能性』
『深さ別に追加調査』
『旧河道との関係』
ノエルが覗く。
「タイトルみたい。」
「なにが?」
「下から来る水。」
ココアは地面を見る。
「……うん。」
◇
その時だった。
「ココア様ー!」
遠くから声がした。
一人ではない。
振り返る。
畑の向こうから数人の農家が歩いてくる。
手には。
見覚えのある容器。
紙。
浅い皿。
「……あれ。」
ノエルが目を丸くした。
「あれ、昨日の。」
「うん。」
土と水を調べるために、みんなで決めた道具。
一人の農家が紙を広げる。
「ここの畑なんだが。」
「雨の次の日に水が残る。」
「それで、言われた通りに調べてみたら。」
皿を差し出す。
「こっちだけ、残るものが多い。」
別の農家も前へ出た。
「うちは逆だ。」
「水は残るが、皿にはほとんど残らん。」
「だから。」
「同じ原因じゃないかもしれんと思ってな。」
「……。」
ココアは何も言わなかった。
「ココア?」
ノエルが顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「……何もしてない。」
「え?」
「私。」
「今、何もしてない。」
農家たちが自分で土を採った。
自分で水を量った。
自分で混ぜた。
自分で待った。
自分で比べた。
そして。
分からないところだけ持ってきた。
「それがいいんじゃない?」
ノエルが言う。
「……うん。」
ココアの口元が、少し緩んだ。
「これがいい。」
◇
「水、ここまでだよな?」
「線まで。」
「混ぜるのは?」
「二十回。」
「待つ時間は?」
「紙に描いてある。」
「布、これでいいか?」
「同じの使えよ。」
「違ったら比べられんぞ。」
農家同士で確認している。
もう。
一つずつ。
ココアへ聞いてはいない。
バルドが鼻を鳴らした。
「昨日まで。」
「六つのお嬢様が畑で何をするんだと。」
「半分、面白がって見てた連中だ。」
ココアが農家たちを見る。
「今は?」
「見れば分かるだろ。」
一人の農家がこちらへ気づいた。
「ああ、ココア様。」
「この線で合ってるか?」
容器を見せる。
「合ってる。」
「よし。」
それだけ。
すぐに隣の農家と話し始める。
「次、南の畑もやるぞ。」
「先に水が残ってるところだろ。」
「ああ。」
バルドがぽつりと言った。
「畑じゃ。」
「口より結果の方がよく育つ。」
ココアが首を傾げる。
「それ、バルドさんが考えたの?」
「今考えた。」
「ちょっと格好いい。」
「ちょっとは余計だ。」
ノエルが笑った。
◇
午後。
叔父の屋敷。
机いっぱいに紙が並んでいた。
百四十七枚。
昨日まで、ただの畑だったものが。
少しずつ。
情報になっていく。
「よし。」
叔父が言った。
「正式にやる。」
ココアが顔を上げる。
「何を?」
「土と水の調査だ。」
「人を出す。」
「道具も揃える。」
「記録も残す。」
「必要なら排水の工事もする。」
「そのための予算も組む。」
ココアの目が少し大きくなる。
「……予算?」
「そこか。」
叔父が呆れた顔をする。
「出るの?」
「必要ならな。」
ココアはすぐ研究帳を開いた。
セバスが嫌な予感のする顔になる。
「ココア様。」
「はい。」
「何を書いておられます?」
『領地を豊かにする』
その下。
『研究費が増える』
「……。」
セバスが眼鏡を押し上げる。
「順番が逆にならぬよう、お願いいたしますぞ。」
「領地が先。」
「本当に?」
「……たぶん。」
「ココア様。」
「先。」
「絶対?」
「先。」
叔父が笑った。
◇
その夜。
ココアは机の上に、いくつもの皿を並べていた。
旧河道。
現在の川辺。
離れた土地。
そして。
深さを変えて採った三つの土。
ヒルダが腕を組み、隣に立っている。
「見るだけですよ。」
「うん。」
「触りません。」
「うん。」
「結合にも。」
「触らない。」
「疲れたら?」
「やめる。」
「よろしい。」
ココアは息を整えた。
「すいへー……。」
「りーべー……。」
視界が変わる。
元素。
結合。
水。
土。
いつもの世界。
そして。
旧河道。
「……ある。」
昼間と同じ。
ほんの僅かに。
あの色。
現在の川辺。
ほとんど見えない。
離れた土地。
見えない。
旧河道。
ある。
さらに。
深い土ほど。
少し強い。
「……。」
「ココア様?」
「分からない。」
ヒルダが眉を寄せる。
「何が見えているのです?」
「今まで見たことないもの。」
「危険なものですか?」
「それも分からない。」
研究帳を開く。
『新しい色』
『旧河道』
『深い層ほど強い?』
『地下水との関係?』
ペンが止まる。
「……。」
何だろう。
初めて見る。
はずなのに。
なぜか。
完全に初めてではないような。
そんな気がする。
「ココア様?」
「……ヒルダ。」
「はい。」
「私。」
「これ。」
「どこかで見たことあるのかな。」
「わたくしには。」
「その色は見えません。」
「うん。」
分かっている。
これは。
自分にしか見えない。
だからこそ。
自分で確かめるしかない。
研究帳の一番下へ。
一行。
書き加える。
『この色を、どこで見た?』
ココアは。
その文字を。
しばらく。
見つめていた。




