第36話 土地の記憶
翌朝。
叔父の屋敷。
◇
大きな机の上に、領地の地図が広げられていた。
その周りには、昨日までにはなかった印がいくつもある。
問題なし。
経過観察。
水が抜けにくい。
水に溶けるものが多い。
原因不明。
百四十七枚。
全部を、同時には直せない。
◇
『優先順位』
◇
昨夜。
ココアが研究帳に書いた言葉だった。
「……一番、悪いところから?」
「理由は?」
叔父が聞く。
「一番、困ってるから。」
「二番目の畑も困っているぞ。」
「……うん。」
ココアは地図を見る。
一枚。
その隣。
さらに、その隣。
「……あれ?」
指が止まった。
「先生。」
「はい。」
「ここ。」
水が抜けにくい。
そう記録された畑が。
七枚。
少し離れて。
四枚。
さらに。
二枚。
「集まってる。」
ノエルも身を乗り出した。
「ほんとだ。」
「ここも、昨日水が残ってたところ。」
「うん。」
ココアの指が印を追う。
そのすぐ横を。
一本の線が走っていた。
「川……。」
ヨハンの畑。
東側の畑。
昨日、新しく見つかった畑。
全部ではない。
けれど。
水の問題が出ている畑は。
川に近い場所へ偏っている。
「叔父様。」
「なんだ。」
「畑じゃなくて。」
ココアが地図の線をなぞる。
「川を調べたい。」
「なぜだ?」
「一枚ずつ違う原因かもしれない。」
いくつもの印を。
指で囲む。
「でも。」
「もし同じ原因だったら。」
一つ。
原因を見つければ。
一枚ではなく。
何枚も。
まとめて助けられるかもしれない。
「なるほど。」
叔父が椅子にもたれた。
「なら。」
「俺より先に話を聞くべき男がいる。」
「誰?」
「この土地で五十年以上。」
「畑を作っている男だ。」
◇
「分からんな。」
一時間後。
ココアの前で、一人の老人が地図を見ていた。
バルド。
七十二歳。
日に焼けた顔。
節くれ立った指。
この土地で生まれ。
この土地で畑を作り続けてきた。
「川が原因だと?」
「まだ分からない。」
「なら。」
「分からんものを、わしに聞いてどうする。」
「昔を知りたいの。」
「昔?」
「今の川なら、見れば分かる。」
ココアは地図を見る。
「でも。」
「昔の川は、見ても分からない。」
だから。
「バルドさんに聞きたい。」
「……。」
老人の目が。
少し細くなった。
「ヨハンの畑で芽を出させたそうだな。」
「まだ、芽が出ただけ。」
「大成功じゃないのか。」
「違うよ。」
「どうしてだ。」
「次も同じように育つか。」
「まだ分からないから。」
「……。」
バルドが鼻から小さく息を吐いた。
「少なくとも。」
「浮かれてはいないらしい。」
「バルドじいちゃん。」
ノエルがむっとする。
「なんだ。」
「ココア、ちゃんとやってるよ。」
「お前はもう、ココアと呼んでるのか。」
「昨日から。」
「そうか。」
それだけ。
バルドは。
まだココアを信用していない。
でも。
だからこそ。
聞く価値がある。
最初から。
自分に都合のいいことだけを言う人ではない。
「バルドさん。」
「なんだ。」
「三年前くらいから。」
「水が抜けにくくなった畑が、いくつもあるの。」
「三年前……。」
バルドが眉を寄せる。
「川で何か変わった?」
「この辺りでは特にはない。」
「水路は?」
「毎年さらっている。」
即答だった。
「水が抜けなければ。」
「最初に見るところだ。」
「……うん。」
やっぱり。
この土地の人たちは。
三年間。
何もせず困っていたわけではない。
肥料も。
種も。
耕し方も。
水路も。
自分たちにできることは。
やっている。
それでも。
直らなかった。
「じゃあ。」
ココアが地図の上を指す。
「もっと上は?」
「上?」
「川の、もっと上流。」
「……。」
バルドが黙った。
やがて。
地図のずっと北側を指す。
「山際か。」
「うん。」
「最後に行ったのは?」
「さてな。」
顎を撫でる。
「五年……いや。」
「六年は行っていない。」
「行きたい。」
「遠いぞ。」
「どれくらい?」
「歩けば半日はかかる。」
「行く。」
「即答するな。」
「調べたい。」
「六歳の足で山へ入る気か。」
「……。」
ココアが叔父を見る。
「叔父様。」
「駄目だ。」
「まだ何も言ってない。」
「顔に書いてある。」
「むぅ。」
叔父が腕を組む。
「山際までなら許す。」
「……!」
「ただし。」
「はい。」
「ヒルダを連れて行け。」
「もちろんでございます。」
後ろに立っていたヒルダが即答する。
「森の奥へは入るな。」
「はい。」
「川から離れるな。」
「はい。」
「バルドの指示に従え。」
「はい。」
「セバス。」
「承知しております。」
「馬車を入れられるところまで手配いたしましょう。」
「やった。」
バルドがため息をつく。
「まだ。」
「わしは行くとは言っていないぞ。」
「バルドさんがいないと。」
「昔と比べられない。」
「……。」
「お願い。」
しばらく。
バルドはココアを見ていた。
「一度だけだ。」
「ありがとう!」
「礼は。」
「何か見つかってからにしろ。」
◇
翌日。
朝早く。
五人は村を出た。
ココア。
ノエル。
セバス。
ヒルダ。
バルド。
途中までは馬車。
そこから徒歩。
畑がなくなった。
家もなくなった。
道も細くなっていく。
左右には木々。
聞こえるのは。
川の音。
鳥の声。
五人の足音。
「まだ?」
「さっきも聞いたぞ。」
「どれくらい?」
「子供はすぐ聞くな。」
「研究者も時間は気にする。」
「研究者?」
「……。」
ココアの足が。
止まりかけた。
「ココア様。」
ヒルダの声。
「はい。」
「今のは?」
「なんでもない。」
「左様でございますか。」
横を見る。
セバスも。
眼鏡の奥から。
じっと見ている。
「……ほんとに、なんでもない。」
「何も申し上げておりませんぞ。」
「顔が言ってる。」
「ココア様も。」
「同じことをなさるようになられましたな。」
「……叔父様のせい。」
ノエルが首を傾げた。
「ココア、疲れた?」
「ちょっと。」
「私も。」
二人で水を飲む。
「五分。」
ヒルダが言った。
「休憩でございます。」
「まだ歩けるよ?」
「存じております。」
「では、何故?」
「歩けることと。」
「休まなくてよいことは別でございます。」
「……。」
バルドが鼻で笑う。
「その娘には。」
「見張りが二人も必要なのか。」
「三人でございます。」
セバスが答えた。
「叔父様も?」
「伯爵様も含めれば四人ですな。」
「多い。」
「必要でございます。」
ノエルが笑った。
◇
また歩く。
さらに上へ。
もう。
普段。
農家が来るような場所ではない。
その時。
「……待て。」
先を歩いていたバルドが止まった。
「どうしたの?」
返事がない。
川を見ている。
長い沈黙。
そして。
「……こんなところに。」
「なに?」
バルドが道を外れた。
「ココア様。」
ヒルダがすぐに前へ出る。
「私の後ろを。」
「うん。」
五人で。
川岸へ降りていく。
そこには。
大きな岩が。
いくつも転がっていた。
土砂。
倒木。
川は。
それらを避けるように。
大きく曲がっている。
「バルドさん?」
「違う。」
老人が呟いた。
「ここは。」
「こんな流れじゃなかった。」
◇
ココアには分からない。
今の川しか。
知らないから。
「昔は?」
バルドが歩く。
川から離れた。
草の生えた場所を。
杖で指す。
「ここだ。」
「ここ?」
「ここを流れていた。」
今の川から。
かなり離れている。
「もっと真っ直ぐだった。」
バルドがさらに上を見る。
「それに。」
「こんな岩はなかった。」
岩。
土砂。
倒木。
ココアも。
上を見る。
それから。
バルドが示した。
草地を見る。
「……。」
しゃがむ。
草を。
手で分ける。
土の中から。
丸い石が。
一つ。
その隣にも。
もう一つ。
「バルドさん。」
「なんだ。」
「これ。」
「川の石?」
老人もしゃがみ込む。
石を拾う。
角がない。
表面が。
滑らかに削られている。
「そうだ。」
「昔からあった?」
「川底にな。」
「……。」
ココアが。
草地を見る。
今は。
水が流れていない。
でも。
石は残っている。
「ここ。」
「昔は本当に。」
「川だったんだ。」
「ああ。」
◇
土地に。
昔の川が。
残っている。
◇
「すいへー……。」
「りーべー……。」
視界が変わる。
岩。
土。
水。
無数の元素。
けれど。
それだけでは。
答えにならない。
元素視覚は。
今を見せてくれる。
でも。
三年前の川は。
見せてくれない。
◇
「いつ。」
「変わったと思う?」
「分からん。」
バルドはしゃがみ込み。
土に触れた。
「だが。」
倒木を見る。
「大水でもなければ。」
「こうはならん。」
「大水……。」
ノエルが声を上げた。
「あったよ。」
「いつ?」
「三年前。」
ココアが。
ノエルを見る。
「すごい雨。」
「覚えてる。」
「お父さんと。」
「ずっと家にいた。」
バルドも顔を上げた。
「……あの雨か。」
◇
三年前。
ヨハンの畑が。
悪くなり始めた頃。
昨日集めた記録でも。
同じ頃から。
水の抜けが悪くなったと答えた農家が。
何人もいた。
「先生。」
「はい。」
「地図。」
セバスが鞄から地図を出し。
地面へ広げる。
バルドも。
隣へしゃがんだ。
「ここが今いるところ?」
「そうだ。」
ココアの指が。
川を下る。
ずっと。
下へ。
そして。
昨日。
印が集まっていた場所。
「ここ。」
「三年前から。」
「水が抜けにくくなった畑が多い。」
指を上流へ戻す。
「ここ。」
バルドを見る。
「昔と。」
「川が変わってる。」
「……ああ。」
「変わったかもしれないのは。」
三年前。
同じ。
「……原因か?」
ノエルが聞く。
「まだ。」
ココアは首を振った。
「分からない。」
川の流れが変わった。
だから。
畑が悪くなった。
そうとは。
まだ言えない。
水が。
どこへ流れているのか。
地下は。
どうなっているのか。
畑の水と。
川の水が。
どう繋がっているのか。
確かめることは。
まだある。
「でも。」
ココアが地図を見る。
「調べる理由にはなる。」
◇
バルドは。
黙って地図を見ていた。
しばらくして。
「お嬢さん。」
「なに?」
「その印。」
太い指が。
地図の畑を指す。
「全部。」
「昨日調べたのか。」
「私じゃないよ。」
「何?」
「みんなで。」
ノエルを見る。
「ノエルも。」
ヨハンも。
農家たちも。
「私一人じゃ。」
「百四十七枚は無理だから。」
「……。」
バルドは。
しばらくココアを見る。
「魔力がないから。」
「何もできん娘だと聞いていた。」
ノエルの顔が険しくなる。
ヒルダも。
僅かに目を細めた。
けれど。
ココアは。
黙って続きを待った。
「違ったらしいな。」
「……。」
「一人で。」
「何でもできる奴より。」
バルドが。
地図を見る。
「人を動かせる奴の方が。」
「厄介だ。」
「厄介?」
「褒めている。」
「分かりにくい。」
「年寄りは。」
「そういうものだ。」
ノエルが。
にやりと笑う。
「バルドじいちゃん。」
「なんだ。」
「ココアのこと認めた?」
「余計なことを言うな。」
「認めたんだ。」
「行くぞ。」
「どこへ?」
バルドが。
上流を見る。
「もう少し上だ。」
「まだ行くの?」
「川を調べに来たんだろう。」
「うん!」
「なら。」
「ここで帰るな。」
◇
初めて。
バルドの方から。
調査を続けると言った。
ココアは。
少しだけ。
笑った。
◇
村へ戻ったのは。
午後だった。
疲れた。
足も重い。
お腹も。
空いている。
それでも。
ココアは。
研究帳を開いた。
『三年前の大雨』
『上流の流路変化』
『旧河道の痕跡』
『畑の排水悪化』
その下へ。
『因果関係は未確認』
と。
書き加える。
「次は。」
「川の水と――」
「ココア様。」
柔らかな女性の声がした。
「はい?」
顔を上げる。
一人の女性が。
立っていた。
五十歳ほど。
背は高く。
肩もしっかりしている。
白いブラウス。
濃い色の長いスカート。
腰には。
清潔な前掛け。
髪は。
後ろできちんとまとめられていた。
穏やかな顔。
なのに。
なぜか。
逆らってはいけない気がする。
「初めまして。」
女性が。
丁寧に頭を下げる。
「マーサと申します。」
「村で。」
「食堂と宿を預かっております。」
「ココアです。」
「存じております。」
にこりと笑う。
「魔力のない。」
「伯爵家のお嬢様。」
「……。」
ヒルダが。
僅かに身構える。
けれど。
マーサは。
そのまま続けた。
「眼鏡を作って。」
「マヨネーズを作って。」
「今度は。」
「畑を走り回っている。」
「……うん。」
「ずいぶん忙しい。」
「六歳ですね。」
「……。」
ココアが。
少しだけ。
目を丸くした。
魔力零。
そこでは。
終わらなかった。
◇
「それで。」
マーサの視線が。
研究帳へ落ちる。
「ココア様。」
「はい。」
「お昼は。」
「召し上がりましたか?」
「……。」
食べていない。
「そのお顔は。」
「まだですね。」
「調査が長くなって――」
「そうでしたか。」
マーサは。
にこにこしている。
「では。」
「参りましょう。」
「どこへ?」
「お食事です。」
「でも。」
「まだまとめてないから。」
「まとめるのは。」
「食べてからでもできますね?」
「できるけど……。」
「でしたら。」
「問題ございません。」
逃げ道がない。
「先生。」
セバスを見る。
「マーサ殿の仰る通りでございます。」
「ヒルダ。」
「同意いたします。」
「……。」
「また味方がいない。」
マーサが。
小さく笑う。
「おりますよ。」
「どこ?」
「ここに。」
「……?」
「六歳の子に。」
「昼ご飯を食べさせる味方です。」
「……。」
ココアが。
その大きな手を見る。
「自分で歩けるよ?」
「ええ。」
「知っています。」
「じゃあ――」
「歩ける子でも。」
「お腹は空きます。」
「……。」
「難しい顔は。」
「食べてからになさい。」
口調が。
ほんの少しだけ。
変わった。
伯爵令嬢へ向ける声ではない。
六歳の女の子へ向ける声だった。
「ほら。」
「食べな。」
「……はい。」
◇
返事をしたあとで。
ココアが。
目を瞬いた。
自分でも驚くほど。
素直に。
返事をしていた。
マーサが。
満足そうに頷く。
「よろしい。」
差し出された手は。
まだ。
引っ込まない。
少し迷って。
ココアは。
その手を握った。
「ノエルも来な。」
「いいの?」
「もちろん。」
「やった!」
ノエルが。
反対側へ駆け寄る。
「今日は。」
「よく歩いたんだろう?」
「うん。」
「だったら。」
「食べる。」
「私。」
「そんなに食べられないよ。」
「誰が。」
「山盛り食えと言ったんだい。」
「……。」
「食べられる分を。」
「ちゃんと食べる。」
「それでいい。」
「……うん。」
優しい。
でも。
やっぱり。
逆らえない。
後ろから。
バルドの声。
「諦めろ。」
ココアが振り返る。
「マーサに。」
「飯のことで勝てる奴は。」
「この村にはおらん。」
「バルドさんも?」
「……。」
「バルドさん?」
「早く行け。」
「負けたことあるんだ。」
「ノエル。」
「なに?」
「余計なことを言うな。」
ノエルが笑う。
マーサも笑う。
ココアも。
少し。
笑った。
◇
三年前。
川で何かが変わった。
それが。
畑の異変と。
繋がっているのか。
まだ。
答えは出ていない。
でも。
元素視覚には。
見えないものがある。
今の土は。
見える。
今の水も。
見える。
けれど。
三年前の川は。
見えない。
それを知っていたのは。
五十年。
この土地を。
見てきた人だった。
◇
ココアは。
研究帳を閉じる。
知らないなら。
聞けばいい。
見えないなら。
知っている人に。
教えてもらえばいい。
◇
研究室では。
本に教わった。
論文に教わった。
先輩に教わった。
◇
この土地では。
畑が。
川が。
暮らしてきた人たちが。
教えてくれる。
◇
ココアは。
マーサの大きな手を握ったまま。
村へ向かって歩く。
◇
この土地には。
まだ。
先生が。
たくさんいる。




