第16話 生み出したもの
数日後。
アルヴェイン伯爵の執務室。
大きな机の上に、
二つの道具が置かれていた。
一つは、
細い金属の枠に二枚のガラスを収めた眼鏡。
もう一つは、
小さな持ち手の付いた拡大鏡。
伯爵は、
その二つをしばらく見つめていた。
「これを、ココアが?」
「うん。」
机の前に立つココアが頷く。
その隣には、
眼鏡を掛けたセバス。
少し後ろには、
回復したヒルダが控えている。
伯爵は、
眼鏡へ手を伸ばした。
「これが、セバスの掛けているものと同じか。」
「左様でございます。」
「近くの文字が見やすくなる、と。」
「はい。」
伯爵は眼鏡を持ち上げ、
作りを確かめる。
二枚のガラス。
それを囲む細い枠。
左右から伸び、
耳へ掛けるための部分。
「こちらは?」
今度は、
拡大鏡を手に取る。
「小さいものを大きく見るの。」
「どの程度だ。」
「使ってみて。」
ココアが、
紙を一枚差し出した。
伯爵は拡大鏡を通して文字を見る。
「……なるほど。」
位置を変える。
外して見る。
もう一度、
ガラスを通す。
「確かに大きく見える。」
「でしょ?」
ココアの顔が、
少し得意げになる。
「ココア様。」
「……はい。」
セバスに言われ、
すぐに姿勢を戻した。
伯爵の口元が、
僅かに緩む。
だが。
すぐに二つの道具へ視線を戻した。
「セバス。」
「はい。」
「すでに欲しがっている者がいると聞いた。」
「左様でございます。」
「眼鏡については、工房の職人や商人などから購入を希望する者が出ております。」
「拡大鏡についても、医師や薬師から問い合わせがございます。」
「そうか。」
伯爵は、
眼鏡を机へ戻した。
そして。
ココアを見る。
「では、ココア。」
「はい。」
「最初から説明しなさい。」
「最初から?」
「なぜ、これを作ろうと思った。」
「……。」
ココアは、
少し考えた。
「ヒルダが怪我したから。」
伯爵の視線が、
ヒルダへ向く。
右腕の包帯は、
すでに小さくなっている。
「傷の中に、小さいものが残ってたの。」
「小さいもの?」
「うん。」
「でも、お医者様には見えなかった。」
「だから。」
「大きく見えればいいと思った。」
伯爵は、
黙って聞いている。
「厨房で瓶をいっぱい見たら。」
「形によって、大きく見えるものがあったの。」
「それで。」
「ガラスを削ってもらった。」
「何枚も?」
「うん。」
「失敗もした?」
「いっぱい。」
即答だった。
「割れたのもあったし。」
「歪んだのもあった。」
「でも。」
「形を変えて試してたら。」
「見やすいのができた。」
「それでヒルダの傷を見たのか。」
「うん。」
「お医者様にも見えた。」
「それで取ってもらった。」
伯爵が、
ヒルダを見る。
ヒルダは静かに頭を下げた。
「事実でございます。」
「それから?」
「先生が。」
ココアが、
セバスを見る。
「近くの文字を見づらそうにしてた。」
「……ココア様。」
「本当でしょ?」
「否定はいたしませんが。」
伯爵が、
セバスの眼鏡を見る。
「それで眼鏡か。」
「うん。」
「同じガラスでも。」
「人によって、見やすいものが違ったの。」
「だから。」
「いろんな形を作って。」
「先生に一番見やすいものを探した。」
「それで終わらなかったのは、なぜだ?」
「え?」
「セバスのためだけなら。」
「一つ作れば済む。」
「……。」
ココアは、
少し考える。
「他の人にも。」
「見づらい人がいたから。」
「工房の人が。」
「先生には合わなかったガラスを使ったら。」
「見やすいって言ったの。」
「だから。」
「先生に合わないからって。」
「失敗とは限らないと思った。」
伯爵の目が、
僅かに細くなる。
「それで?」
「何人かに試してもらった。」
「同じ場所に座って。」
「同じ紙を見てもらって。」
「同じ順番でガラスを試して。」
「どれが見やすいか書いた。」
「なぜ同じ条件にした。」
「その方が比べられるから。」
今度は、
迷わなかった。
「違う場所で。」
「違う距離で。」
「違うものを見たら。」
「何が違ったから結果が変わったのか。」
「分からなくなるでしょ?」
「だから。」
「比べたいもの以外は。」
「できるだけ同じにするの。」
「……。」
伯爵は黙った。
ココアにとっては、
特別な考え方ではない。
条件を揃える。
記録する。
比較する。
結果から、
次に確かめることを決める。
前世で。
研究者として、
何度も繰り返してきたことだった。
世界は変わった。
身体も変わった。
けれど。
身についた考え方まで、
失ったわけではない。
「それで。」
ココアは続ける。
「見やすいガラスが。」
「いくつかに分かれた。」
「だから。」
「ガレスさんたちと相談して。」
「同じものを作れるようにしたの。」
「作り方を書いて。」
「お手本も残して。」
「誰が作っても。」
「できるだけ同じものになるように。」
「……三歳で。」
伯爵が、
小さく呟いた。
「お父様?」
「いや。」
伯爵は、
セバスを見る。
「どこまで教えた?」
「商売については、私が教えております。」
「ですが。」
セバスは、
眼鏡へ触れた。
「これを作る方法も。」
「試す方法も。」
「同じものを作るための考え方も。」
「私が教えたものではございません。」
「そうか。」
伯爵は、
再びココアを見る。
幼い。
どう見ても、
三歳の娘だ。
椅子へ座れば、
足は床へ届かない。
難しい言葉を知らないこともある。
世の中の仕組みも、
まだほとんど知らない。
それでも。
目の前には、
結果がある。
「ココア。」
「はい。」
「これを売りたいか?」
「……。」
ココアは、
眼鏡を見る。
「欲しい人がいるなら。」
「作ってあげたい。」
「ただで?」
「……。」
止まった。
「ただだと。」
「ガレスさんたちのお金がなくなる。」
「そうだ。」
「ガラスも買えなくなる。」
「そうだな。」
「じゃあ。」
「売る。」
「分かった。」
伯爵は頷いた。
「許可する。」
「ほんと?」
「ああ。」
ココアの顔が、
ぱっと明るくなる。
「眼鏡と拡大鏡の製造と販売を認める。」
「伯爵家としても支援しよう。」
「支援?」
「資金。」
「職人。」
「材料。」
「運搬。」
「販売する場所。」
「お前一人では用意できないものは多い。」
「……うん。」
伯爵は、
そこで一度、
セバスへ視線を向けた。
「ただし。」
「はい。」
「伯爵家が支援するからといって。」
「職人の技術まで。」
「こちらのものにするような真似はするな。」
「もちろんでございます。」
「ガラス工房にも。」
「金属職人にも。」
「相応の利益を残せ。」
「承知いたしました。」
ココアが、
父を見る。
「お父様。」
「なんだ。」
「なんで?」
「何がだ。」
「お父様がお金出すのに。」
「全部もらわないの?」
伯爵の表情が、
僅かに変わった。
「ココア。」
「はい。」
「お前一人で。」
「眼鏡を作れたか?」
「……無理。」
「ガレス一人なら?」
「眼鏡が何か知らなかった。」
「金属職人だけなら?」
「ガラスがない。」
「そうだ。」
伯爵は、
机の上の眼鏡へ指を置く。
「誰か一人だけで。」
「生まれたものではない。」
「……うん。」
「ならば。」
「関わった者へ。」
「その働きに応じたものを返す。」
「それだけのことだ。」
「……。」
「伯爵家が立場を利用して。」
「利益だけを奪えば。」
「次に。」
「新しいことへ力を貸そうと思う職人はいなくなる。」
「……。」
ココアは、
眼鏡を見る。
ガラスを削ったガレス。
枠を作った金属職人。
帳簿を計算するセバス。
そして。
資金を出す父。
確かに。
誰か一人では。
眼鏡にはならなかった。
「分かった。」
「よろしい。」
伯爵は、
今度はココアをまっすぐ見た。
「そして。」
「伯爵家が支援する以上。」
「お前も好き勝手にしてよいわけではない。」
「……はい。」
「金の流れはセバスに管理させる。」
「製造についても。」
「問題が起きれば必ず報告すること。」
「分かった。」
「人の身体に関わる用途で使う場合は。」
「医師など。」
「その分野を知る者の判断を優先しなさい。」
「うん。」
「それから。」
伯爵は、
少し声を落とした。
「自分の知識を。」
「過信するな。」
「……。」
「今回うまくいったからといって。」
「次もうまくいくとは限らない。」
「知っていることと。」
「正しいことは同じではない。」
「分からぬものは。」
「分からぬと言いなさい。」
「……はい。」
「一人で分からぬなら。」
「分かる者を探せ。」
「はい。」
伯爵は、
そこで一度言葉を切った。
「それができる者でなければ。」
「人の上に立つことはできない。」
「……。」
ココアは、
父を見ていた。
褒められている。
でも。
何をしてもいいとは、
言われていない。
成果を出したからこそ。
その成果が、
誰へ影響するのかまで考えろ。
そう言われている。
前世でも。
研究成果が、
研究室の中だけで終わらないことはあった。
使われ方によって。
意味が変わることもある。
だから。
「分かった。」
「よろしい。」
伯爵は、
セバスを見る。
「それから。」
「はい。」
「利益の配分を。」
「こちらに。」
セバスが、
用意していた紙を差し出した。
伯爵は目を通す。
「……。」
しばらくして。
「ココアの取り分がない。」
「現状では。」
「伯爵家の事業として――」
「駄目だ。」
セバスの言葉を、
伯爵が遮った。
「お父様?」
「これは。」
「ココアが考えたものだ。」
「はい。」
「試作を重ねたのも。」
「使える形へしたのも。」
「他の者にも使えるようにしたのも。」
「ココアの行動が始まりだ。」
「左様でございます。」
「ならば。」
伯爵は、
紙を机へ置いた。
「利益が出るのであれば。」
「ココアにも還元する。」
「……私に?」
「ああ。」
「でも。」
「お父様がお金出したよ?」
「だから。」
「伯爵家にも利益がある。」
「ガレスさんたちも作ったよ?」
「だから。」
「工房にも利益がある。」
「先生もいっぱい手伝った。」
「私は給金を頂いております。」
「……。」
ココアが黙る。
「ココア。」
「はい。」
「誰か一人の働きだけで。」
「生まれたものではない。」
「だからといって。」
「お前の働きが消えるわけではない。」
「……。」
伯爵は、
眼鏡を指で示した。
「お前が動かなければ。」
「これは存在していない。」
「考えるだけでは。」
「結果にはならない。」
「行動し。」
「失敗し。」
「直し。」
「人の手を借り。」
「形にした。」
「その結果として。」
「価値が生まれた。」
「……価値。」
「ああ。」
「その価値から。」
「利益が生まれるのなら。」
「お前には。」
「その報酬を受け取る権利がある。」
「権利……。」
「そうだ。」
伯爵は、
静かに続ける。
「自分が生み出した価値を。」
「自分だけが軽く扱うな。」
「……。」
ココアは、
しばらく黙っていた。
前世では。
研究成果が利益へ変わるまでの多くを、
組織が担っていた。
自分は研究者だった。
研究する。
結果を出す。
論文を書く。
その先には。
別の仕事をする者がいた。
けれど。
この世界では。
自分の考えたものが。
職人の手で形になり。
誰かの不便を減らし。
その対価が。
お金になって戻ってくる。
「……分かった。」
ココアが頷く。
「もらう。」
「よろしい。」
ココアは、
もう一度、
利益配分の紙を見る。
「それで。」
「なんだ。」
「そのお金。」
「実験に使っていい?」
「……。」
伯爵が、
セバスを見る。
セバスが、
静かに目を閉じた。
「伯爵様。」
「なんだ。」
「その質問だけは。」
「すでに私も受けております。」
「そうか。」
「はい。」
伯爵は、
少しだけ笑った。
「ならば話は早い。」
「成人するまで。」
「ココアの取り分は。」
「セバスが管理しなさい。」
「承知いたしました。」
「え。」
ココアが止まる。
「私のお金なのに?」
「お前の金だ。」
「じゃあ私が――」
「三歳児に大金は管理させん。」
「……。」
「お父様。」
「なんだ。」
「今。」
「三歳って言った。」
「三歳だからな。」
「でも。」
「三歳だ。」
「……。」
反論できない。
「必要な研究費は。」
伯爵が続ける。
「セバスへ申請しなさい。」
「必要だと認められれば。」
「お前の取り分から出せばよい。」
「……全部?」
「全部とは言っていない。」
「むぅ。」
「残すことも覚えなさい。」
「……はい。」
伯爵は頷いた。
「セバス。」
「はい。」
「帳簿は分けろ。」
「ココアの財産だと。」
「本人にも分かるようにしておけ。」
「承知いたしました。」
「定期的に残高も見せなさい。」
「はい。」
ココアが、
首を傾げる。
「私が使えないのに?」
「使えないのではない。」
伯爵が答える。
「管理を任せるだけだ。」
「……違うの?」
「違う。」
「お前のものを。」
「誰かが預かることと。」
「誰かのものになることは違う。」
「自分の財産が。」
「いくらあり。」
「何に使われ。」
「いくら残っているのか。」
「お前自身も知っておきなさい。」
「分かった。」
今度は、
素直に頷いた。
伯爵は、
そんな娘を見つめる。
賢い。
それは、
間違いない。
だが。
まだ三歳だ。
知識があることと。
世の中を知っていることは、
同じではない。
善意だけでは。
済まないこともある。
金が絡めば。
人も変わる。
立場があれば。
責任も生まれる。
そして。
アルヴェイン伯爵家には。
この家として。
果たさなければならない責務がある。
「ココア。」
「なに?」
「好きなだけ学びなさい。」
「……うん。」
「知りたいものがあるなら。」
「調べなさい。」
「うん。」
「作りたいものがあるなら。」
「作れる者を探しなさい。」
「うん!」
「ただし。」
伯爵の表情が、
僅かに引き締まる。
「お前は。」
「アルヴェイン伯爵家の娘だ。」
「……うん。」
「その立場は。」
「お前が好きだから持っているものではない。」
「……?」
「家に生まれた者には。」
「その家で果たすべき役目がある。」
「お父様も?」
「ああ。」
「したくないことも?」
「する。」
「なんで?」
伯爵は、
少しも迷わなかった。
「私が。」
「アルヴェイン伯爵だからだ。」
「……。」
「領地を預かり。」
「そこで暮らす者を守る。」
「それが。」
「この家を継いだ私の責任だ。」
ココアは、
父を見上げる。
「だから。」
「お前も何かを始める時は。」
「自分がしたいかどうかだけではなく。」
「誰に影響するのか。」
「どんな責任が生まれるのか。」
「それも考えなさい。」
「……。」
難しい。
けれど。
父が大事なことを言っているのは、
分かる。
「分かった。」
「今は。」
「それでよい。」
伯爵は、
眼鏡を手に取った。
三歳の娘が生み出した。
まだ。
この領地のほとんどの者が、
存在すら知らない道具。
これが。
この先。
何を変えるのか。
伯爵にも分からない。
だからこそ。
見なければならない。
父として。
そして。
アルヴェイン伯爵として。
「セバス。」
「はい。」
「進めなさい。」
「眼鏡と拡大鏡。」
「伯爵家として支援する。」
「承知いたしました。」
「ただし。」
「品質を落とすな。」
「売れるからといって。」
「急に数を増やす必要もない。」
「問題が出れば止めろ。」
「はい。」
「職人にも。」
「正当な利益を。」
「承知しております。」
伯爵は頷いた。
「ならばよい。」
ココアは、
父を見る。
「お父様。」
「なんだ。」
「ありがとう。」
「礼を言う必要はない。」
「でも。」
「これは。」
伯爵が、
眼鏡を机へ戻した。
「お前が行動した結果だ。」
「私は。」
「その結果を。」
「正当に扱っただけだ。」
「……。」
ココアは、
少しだけ考えて。
「じゃあ。」
「もっと頑張る。」
「ほどほどにしなさい。」
「なんで!?」
「三歳だからだ。」
「また言った!」
執務室に、
ココアの声が響く。
ヒルダが、
僅かに笑い。
セバスは、
眼鏡を押し上げた。
伯爵も。
ほんの少しだけ、
笑っていた。
◇
この日。
ココアは初めて。
自分が生み出したものから、
自分の報酬を得ることになった。
ただし。
その全額を、
自由に使えるわけではない。
管理者。
セバス。
使用目的。
主に研究。
申請先。
セバス。
承認。
セバス。
「……。」
帰りの廊下。
ココアは、
隣を歩く教育係を見上げた。
「先生。」
「はい。」
「私のお金なのに。」
「はい。」
「先生にお願いしないと使えないの?」
「左様でございます。」
「……。」
「何か問題でも?」
「いっぱい研究したい。」
「必要性をご説明ください。」
「いっぱい実験したい。」
「計画をご提出ください。」
「いっぱい材料欲しい。」
「予算をご提示ください。」
「……先生。」
「はい。」
「厳しくない?」
「管理を任されましたので。」
「むぅ……。」
セバスは、
眼鏡を押し上げる。
「研究には。」
「お金が掛かるのでございましょう?」
「……掛かる。」
「でしたら。」
「稼ぐことも。」
「残すことも。」
「使い方を考えることも。」
「覚えていただきます。」
「……。」
ココアは黙った。
そして。
少しだけ考える。
「じゃあ。」
「もっと稼げば。」
「もっと研究できる?」
「……。」
セバスの足が止まった。
「先生?」
「ココア様。」
「なに?」
「今の発想は。」
「少々、危険な気がいたします。」
「なんで?」
「いえ。」
セバスは、
小さく息を吐いた。
「気のせいであることを願っております。」
ココアには。
まだ分からなかった。
研究には。
お金が掛かる。
なら。
研究費を。
自分で稼げばいい。
それは。
前世で。
研究費に頭を悩ませた記憶を持つココアにとって。
あまりにも。
魅力的な結論だった。




