第11話 分からないなら
ヒルダの熱が、
下がらない。
昼を過ぎても。
夕方になっても。
むしろ、
少しずつ上がっていた。
「……。」
ココアは、
ベッドの横に立っていた。
眠っているヒルダの額には、
汗が浮かんでいる。
呼吸も、
いつもより速い。
医師が右腕の傷を確認する。
「腫れが広がっていますね。」
「薬、効いてないの?」
「効いていないとは申せません。」
「じゃあ、どうして?」
「……。」
医師は、
すぐには答えなかった。
「原因を取り除けていない可能性がございます。」
「原因……。」
ココアの視線が、
傷へ落ちる。
赤く腫れた皮膚。
その奥。
昨日見つけた、
小さな欠片。
まだある。
そして。
その中では。
結合が、
勝手に組み替わり続けていた。
切れる。
繋がる。
また切れる。
また、
別の形へ繋がる。
「先生。」
「はい。」
「傷の中。」
「まだ何か入ってる。」
医師が、
傷を覗き込む。
「異物でございますか?」
「うん。」
「どの辺りでしょう。」
「ここ。」
ココアが指を伸ばす。
だが。
傷には触れない。
少し離れた場所で、
指を止める。
「この辺。」
医師が顔を近付けた。
「……。」
「見える?」
「申し訳ございません。」
角度を変える。
灯りを近付ける。
もう一度、
傷を確認する。
「肉眼では、何とも。」
「でも、あるよ。」
「異物が残っている可能性はございます。」
「取れない?」
「場所が分からないまま傷を探れば、正常な部分まで傷付けてしまいます。」
「……。」
ココアは、
黙った。
自分には見える。
医師には、
見えない。
だったら。
自分で取ればいい?
一瞬。
そう考えた。
あの欠片なら。
自分の力で、
触れられるかもしれない。
結合を切れば。
あるいは、
別の結合へ――
「……駄目。」
「ココア様?」
ココアは、
小さく首を振った。
分からない。
あれが何なのか。
なぜ、
勝手に結合が変わるのか。
切れば、
どうなるのか。
砕ける?
別の物質になる?
もっと危険になる?
何一つ、
分からない。
分からないものを。
人の身体の中で、
試してはいけない。
前の世界でも。
それだけは、
変わらなかった。
「……先生。」
「はい。」
「ヒルダをお願い。」
「もちろんでございます。」
「私。」
ココアは、
もう一度傷を見る。
「調べてくる。」
◇
「ココア様!」
廊下を走る。
「廊下を走ってはいけません!」
「ごめんなさい!」
「でしたらお止まりください!」
「今は無理!」
「ココア様!」
向かう先は、
書庫。
大きな扉を押し開ける。
本。
本。
本。
壁一面。
天井近くまで、
無数の本が並んでいる。
「傷……。」
棚を見る。
「病気……。」
文字を追う。
「薬……。」
見つけた本を、
机へ運ぶ。
次。
その次。
だが。
「届かない……。」
欲しい本は、
高い棚。
ココアは椅子を持ってくる。
乗る。
手を伸ばす。
「あと……ちょっと……。」
「何をなさっているのですか。」
「ひゃっ!」
振り返る。
「先生!」
セバスだった。
椅子の上に立つココア。
足元には、
何冊もの本。
セバスは、
静かに眼鏡を押し上げた。
「まず。」
「降りてください。」
「でも。」
「降りてください。」
「……はい。」
ココアは、
渋々椅子から降りた。
「それで。」
セバスが尋ねる。
「何をお探しなのですか?」
「ヒルダを治す方法。」
セバスの表情が、
僅かに変わった。
「医師がおります。」
「うん。」
「治療は医師へ任せるべきです。」
「分かってる。」
「でしたら――」
「でも。」
ココアは、
セバスを見る。
「先生。」
「はい。」
「分からないことがあったら、どうするの?」
「……。」
「調べるんでしょ?」
セバスが黙る。
「お医者さんも。」
「全部は分からないって言った。」
「だから。」
「私も調べたい。」
「……。」
しばらく。
セバスは、
ココアを見つめていた。
やがて。
小さく息を吐く。
「分かりました。」
「先生!」
「ただし。」
人差し指を立てる。
「勝手な治療はいたしません。」
「うん。」
「薬も作りません。」
「うん。」
「ヒルダへ何かを試すこともいたしません。」
「うん!」
「そして。」
少し間を置く。
「高いところの本は、私が取ります。」
「……うん。」
「なぜ最後だけ返事が遅いのでしょう。」
「気のせい。」
「左様でございますか。」
「うん。」
セバスは、
僅かに口元を緩めた。
◇
机の上へ。
何冊もの本が積まれた。
傷。
熱病。
薬草。
人体。
ココアは、
一冊ずつ開いていく。
「傷から熱が出る……。」
ページをめくる。
「化膿……。」
まためくる。
「腐敗……。」
知っていることもある。
知らないこともある。
そして。
前の世界で知っていたことと、
この世界で信じられていることが、
同じとも限らない。
「先生。」
「はい。」
「この薬草は?」
「傷薬として一般的に使われております。」
「どうして効くの?」
「傷の治りを助けるとされています。」
「どうやって?」
「……。」
セバスが、
本を見る。
「そこまでは記されておりません。」
「じゃあ、こっちは?」
「熱を下げる薬草ですね。」
「どうして?」
「こちらも、理由までは。」
「そっか。」
ココアは、
紙へ書く。
『効くことは分かっている』
『なぜ効くかは分からない』
その下へ。
『傷』
『発熱』
『腫れ』
『異物?』
「……いっぱいある。」
「何がでございますか?」
「分からないこと。」
セバスが、
少し笑った。
「世界とは、そういうものかもしれませんね。」
「先生も?」
「もちろんでございます。」
「お医者さんも?」
「当然です。」
「……そっか。」
ココアは、
紙へ視線を戻した。
それは。
前の世界でも、
同じだった。
どれほど勉強しても。
どれほど研究しても。
分からないことは、
なくならなかった。
むしろ。
一つ分かれば。
その向こうに、
新しい分からないものが現れる。
だから。
研究を続けていた。
分からないことは、
怖くない。
けれど。
今回は。
早く分からなければならない。
ヒルダが、
待っているから。
「先生。」
「はい。」
「お医者さんが。」
「傷の中を見られたら。」
「取れるのかな。」
「異物のことでございますか?」
「うん。」
「それは医師に確認しなければ分かりませんが。」
「……見えないから取れない。」
ココアは、
自分の書いた文字を見る。
『異物?』
自分には。
見えている。
医師には。
見えていない。
「……。」
何か。
引っ掛かる。
治療法ではない。
薬でもない。
もっと。
単純なこと。
「ココア様?」
「……小さい。」
「はい?」
「小さいから。」
ココアが、
顔を上げた。
「見えないんだ。」
「それは、そうでしょうが……。」
「じゃあ。」
小さな指が、
紙の上の『異物?』を指す。
「大きく見えたら?」
「……。」
セバスが、
僅かに眉を上げた。
ココアの頭の中では。
すでに。
別のものが浮かんでいた。
レンズ。
光の屈折。
焦点。
凸面。
前の世界なら。
珍しくもない。
研究室にも、
当たり前にあった。
でも。
ここにはない。
「……。」
ないなら。
作ればいい。
そう考えて。
すぐに止まる。
ガラスを作る設備。
研磨。
精度。
三歳の自分には、
どれもない。
「……違う。」
最初から作る必要はない。
今。
必要なのは。
顕微鏡じゃない。
傷の中の、
ほんの小さなものを。
医師が確認できる程度に、
大きく見せること。
「透明……。」
光を通す。
曲がっている。
ある程度、
厚みがある。
「……あ。」
思い当たった。
ココアが、
椅子から飛び降りる。
「先生!」
「はい?」
「台所!」
「……はい?」
「行ってくる!」
「お待ちください。」
「急いでるの!」
「でしたら私も参ります。」
「早く!」
「ですから走らないでください。」
◇
「料理長!」
「はい!?」
厨房へ入った瞬間。
ココアの声が響いた。
料理人たちが、
一斉に振り返る。
「瓶!」
「……瓶、でございますか?」
「透明なの!」
「はい。」
「いっぱい!」
「……いっぱい?」
「形が違うの、全部!」
料理長は、
セバスを見る。
セバスは。
小さく首を横へ振った。
「私にも分かりません。」
「左様でございますか……。」
料理長が、
保存棚へ向かう。
やがて。
いくつもの瓶が、
作業台へ並べられた。
細長いもの。
太いもの。
四角いもの。
丸いもの。
底が平らなもの。
厚いもの。
「これでよろしいでしょうか。」
「うん!」
ココアは、
一番近くにあった瓶を手に取る。
透明なガラス越しに。
自分の指を見る。
「……違う。」
置く。
次。
「これも。」
次。
「……見にくい。」
瓶を近付ける。
離す。
角度を変える。
また、
近付ける。
「ココア様。」
「なに?」
「先ほどから、何をなさっているのでしょう。」
料理長が、
とうとう尋ねた。
「曲げてるの。」
「……何を?」
「光。」
「……。」
料理長が、
セバスを見る。
セバスも、
ココアを見る。
「ココア様。」
「なに?」
「光は曲がるのでございますか?」
「曲がるよ。」
即答だった。
「……。」
「たぶん。」
「なぜ最後に不安になるのでございますか。」
「こっちでは試してないから。」
「こちら?」
「あ。」
ココアは、
口を閉じた。
セバスの眉が、
僅かに動く。
「……。」
「次!」
誤魔化した。
また瓶を取る。
覗く。
違う。
次。
違う。
「……。」
焦る。
ヒルダの顔が、
頭から離れない。
熱い手。
速い呼吸。
広がった腫れ。
「……違う。」
次。
「これも……。」
置く。
その時。
丸い瓶が、
目に入った。
他より小さい。
胴が、
大きく膨らんでいる。
底も厚い。
「……。」
ココアは、
手に取った。
瓶越しに。
自分の指を見る。
「……あ。」
少し。
大きい。
近付ける。
「違う。」
離す。
「……。」
また近付ける。
ある場所で。
指先が、
大きく見えた。
「……大きい。」
ココアの表情が変わった。
「先生!」
「はい。」
「見て!」
セバスへ瓶を渡す。
「こちらを?」
「底から。」
「……。」
セバスが、
瓶の底越しに自分の指を見る。
「これは……。」
「大きい?」
「確かに。」
「やった!」
ココアの顔に。
今日初めて、
笑顔が戻った。
けれど。
すぐに、
瓶を取り返す。
「まだ。」
歪んでいる。
大きく見える場所も、
狭い。
これでは。
傷の中を見るには、
使いにくい。
「もっと……。」
ココアは、
瓶を回す。
横。
底。
縁。
厚さ。
曲がり方。
光が、
どう通っているのか。
「……形。」
呟く。
「形が違うと。」
「見え方も違う。」
料理長が、
首を傾げる。
「瓶の形でございますか?」
「うん。」
ココアは、
丸い瓶を見つめる。
凸レンズ。
原理は分かっている。
でも。
今ある瓶は、
レンズとして作られたものではない。
なら。
使える形へ、
近付ければいい。
「料理長。」
「はい。」
「お水ちょうだい。」
「水、でございますか?」
「うん。」
小さな器へ、
水が注がれる。
ココアは、
丸い瓶にも水を入れた。
「……。」
もう一度。
底越しに、
指を見る。
「あ。」
さっきと、
見え方が変わった。
近付ける。
離す。
「……。」
光が通るもの。
その形。
境目。
そこを通るたびに、
光の進む方向が変わる。
「やっぱり。」
ココアの目が、
少しずつ輝き始める。
水そのものを使いたいわけではない。
確認したかった。
光は。
ちゃんと曲がる。
この世界でも。
前の世界と同じように。
「先生。」
「はい。」
「見て。」
水を入れた瓶を渡す。
セバスが、
もう一度覗く。
「……先ほどとは違いますね。」
「うん。」
ココアは、
大きく頷いた。
「できる。」
「何がでございますか?」
ココアは。
瓶を受け取る。
底を指でなぞった。
「これを。」
「もっと小さくして。」
「もっと丸くして。」
「ちゃんと磨いたら。」
セバスの視線が、
瓶へ落ちる。
「何をお作りになるおつもりですか?」
「見るもの。」
「見るもの?」
「うん。」
ココアは。
瓶越しに、
自分の指を見る。
大きくなった指先。
その向こうに。
ヒルダの傷を思い浮かべる。
自分だけに見えても。
駄目だった。
自分には、
治療できない。
医師には、
治療できる。
なら。
医師にも、
見えるようにすればいい。
「先生。」
「はい。」
ココアは、
瓶を両手で抱えた。
「ガラスって。」
「削れる?」
セバスは、
瓶を見る。
そして。
ココアを見る。
「……何を始めるおつもりですか。」
ココアは、
もう一度。
瓶の底を覗き込んだ。
「ヒルダを。」
大きく見えた世界の向こうで。
小さな瞳が、
まっすぐ前を見る。
「助けるの。」




