それは“お前の声”じゃない
耳鳴りが、いつもより低かった。
キィン、ではない。
ズゥン、と沈むような音。
水の底に沈められたみたいに、世界が歪む。
「……またかよ」
俺は壁に手をついた。
指先が冷たい。石じゃない。湿っている。
この階層は、やけに“柔らかい”。
深層第七区画。
死者が多い場所ほど、声は濃くなる。
だからここに来た。
そして、来たことを後悔し始めている。
「配信、入ってるな?」
『入ってるよ。顔色やばいけど大丈夫?』
イヤーピース越しに、管理AIの無機質な声。
その向こうで、コメントが流れている。
コメント:
「きた深層」
「今日はガチ回?」
「顔色www」
「無理すんなって」
無理?
今さらそんな言葉、意味がない。
俺はもう、引き返せない。
「……行くぞ」
一歩踏み出した瞬間。
――“やめろ”。
声がした。
はっきりと。
耳元で囁くように。
俺は足を止める。
「……今の、拾ったか?」
『音声には乗ってない』
つまり。
俺だけが、聞いている。
【残留思念】。
死者の最後の声。
だが今のは――妙だ。
“方向”がある。
まるで、そこに“誰かが立っている”みたいに。
俺はゆっくりと、右を向いた。
壁。
ただの壁。
だが。
そこに――黒い染みがある。
血じゃない。
もっと、濃い何か。
目を凝らした瞬間。
――来るな。
今度は、はっきり聞こえた。
しかも。
違う声。
二人分。
「……二重再生?」
おかしい。
同じ死者から複数の情報は拾えない。
これはルールだ。
だが今、明らかに“重なっている”。
俺は手を伸ばした。
触れた瞬間。
視界が、弾けた。
◇
――走れ。
――振り返るな。
息が荒い。
足音が二つ。
誰かと一緒に走っている。
暗い通路。
背後から、何かが来ている。
「まだ追ってくる!」
「ダメだ、ルートが違う!」
男の声。若い。
そして。
「こっちだ!」
もう一人。
そいつの声が――妙に澄んでいる。
まるで、録音じゃない。
“今”の声みたいだ。
その違和感に気づいた瞬間。
――置いてけ。
低い声が、混じった。
誰のものでもない声。
冷たい。
命令。
次の瞬間。
視界がぶれる。
足音が、一つ減る。
振り返るな。
振り返るな。
振り返るな。
なのに。
――見ろ。
命令が上書きされる。
振り返る。
そこに。
“自分”がいた。
◇
「ッ!!」
俺は壁から手を離した。
息が荒い。
心臓が暴れている。
コメント:
「今のなに?」
「視界ログバグってたぞ」
「誰か二人いた?」
「いや三人…?」
『今の映像、解析中。異常検知あり』
当然だ。
あれは、おかしい。
「……三人いた」
俺は呟く。
「二人の探索者と、もう一つ……」
言葉にした瞬間。
頭の奥が軋む。
ギシ、と。
骨じゃない。
思考が擦れている音。
「……クソ」
手が震える。
これは、侵食だ。
【残留思念】を使いすぎた代償。
だが、それだけじゃない。
さっきの“もう一人”。
あれは――死者じゃない。
コメント:
「え?」
「は?」
「死者じゃないって何」
「怖いこと言うな」
「死者の記憶に、“生きてる声”が混ざってた」
配信が、一瞬で静まる。
コメント:
「……」
「それバグじゃなくね」
「やめろ」
「やめろやめろ」
俺も、そう思う。
バグじゃない。
これは。
“混線”だ。
死者の記憶に、誰かが入り込んでいる。
そんなこと。
あり得るはずがない。
――あり得ないはずだった。
「……進む」
『正気?』
「ここで止まったら、ただの怖い話で終わる」
それじゃ、意味がない。
俺は配信者だ。
“結果”を持ち帰る。
それが仕事だ。
それが――俺の正当化だ。
コメント:
「行くなって」
「でも見たい」
「神回の予感」
「これ絶対ヤバいやつ」
足を踏み出す。
通路は続いている。
さっきの記憶と同じ構造。
だが、微妙に違う。
角度。距離。
“ズレている”。
「……罠か」
俺は立ち止まる。
ここで、もう一度。
スキルを使う。
だが。
今は怖い。
さっきの“混線”。
また引いたら。
今度は、戻れない気がする。
それでも。
「――残留思念」
発動。
瞬間。
視界が歪む。
だが今度は、記憶じゃない。
声だけが来る。
――ここは違う。
女の声。
落ち着いている。
だが、その奥に恐怖がある。
――さっきの奴ら、ルート間違えてる。
――正解は左じゃない。
――右の、壊れた壁。
情報だ。
罠回避の情報。
使える。
だが。
その直後。
別の声が重なる。
――右に行け。
同じことを言っている。
なのに。
違和感がある。
冷たい。
感情がない。
まるで、誰かが“真似している”みたいに。
「……どっちだ」
同じ内容。
違う質感。
どっちが本物の死者だ。
コメント:
「右って言ってるじゃん」
「いや怪しい」
「二重来てるのやばい」
「これ選択ミスったら終わるやつ」
俺は目を閉じた。
呼吸を整える。
判断基準は一つ。
“温度”。
死者の声には、必ず“残り火”がある。
感情の残滓。
だが、もう一つは。
それがない。
「……右だ。でも」
俺は呟く。
「壊れた壁の“手前”で止まる」
理由は簡単だ。
両方が右を示している。
なら、その先に“何か”がある。
そして。
“何か”は、たいてい罠だ。
進む。
ゆっくり。
一歩ずつ。
壁が見える。
確かに、壊れている。
その直前で。
俺は止まった。
次の瞬間。
床が、沈んだ。
「やっぱりな」
ギギ、と音を立てて。
足元が崩れる。
落ちれば即死。
その下には――棘。
コメント:
「うおおおおお」
「回避えぐ」
「なんでわかるんだよ」
「やっぱ神」
だが。
俺は、笑えなかった。
問題は、そこじゃない。
「……なんで“両方”が正解なんだ」
罠は見抜けた。
だが。
情報が、重なっていた。
死者と、“何か”が。
同じ結論を出していた。
つまり。
“何か”は。
死者の情報を、読んでいる。
そして。
利用している。
それは。
俺と同じだ。
ぞくり、と背筋が冷える。
コメント:
「今の顔やばい」
「気づいた?」
「なにが?」
「説明しろ」
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「……このダンジョンに」
喉が渇く。
「“俺と同じことしてる奴”がいる」
一瞬で、コメント欄が爆発した。
コメント:
「は?????」
「配信者?」
「他にもスキル持ち?」
「やばすぎ」
違う。
そんなレベルじゃない。
「違う……これは」
言葉が詰まる。
理解したくない。
だが、もう遅い。
「――“死者側”だ」
静寂。
その一秒後。
コメント:
「は?」
「意味わからん」
「怖い怖い怖い」
「やめろ」
その時。
イヤーピースがノイズを吐いた。
『……信号干渉……別配信……検出……』
「別配信?」
俺は凍る。
この階層で。
俺以外に。
配信している奴がいる?
あり得ない。
許可は一枠だけだ。
『……接続されます』
「待て――」
止める前に。
映像が割り込んだ。
画面の端に、もう一つの視点。
暗い通路。
見覚えがある。
さっきの記憶と同じ場所。
そこに。
“誰か”が立っている。
カメラがゆっくりと、こちらを向く。
そして。
そいつは、笑った。
聞き覚えのある声で。
「――見てるぞ」
俺の声で。




