底で囁く者
落ちている。
その感覚だけが、やけに鮮明だった。
重力が引きずる。空気が裂ける。耳鳴りが、内側から脳を叩く。
暗い。何も見えない。
それなのに――
“見られている”。
そんな気配だけが、肌にまとわりつく。
「……ッ!」
咄嗟に体をひねる。
落下中に姿勢を整え、腰のロープを引き抜く。壁に向かって投げる。
引っかかれ。
頼む。
ガキン、と金属音。
フックが何かに刺さる。
体が一気に引かれる。肩が外れそうになる。
「ぐっ……!」
衝撃に歯を食いしばる。
落下は止まった。
だが。
――ここは、どこだ。
ゆっくりと顔を上げる。
暗闇。
だが、さっきまでの“ただの闇”とは違う。
濁っている。
濃い。
まるで、何かが溶け込んでいるみたいに。
「……底、か」
呟いた瞬間。
ぞわり、と背中に悪寒が走る。
視線。
無数の。
見えないはずの“何か”が、確実にこちらを見ている。
――配信。
そうだ。
まだ繋がっているのか。
震える手でカメラを確認する。
ランプは点灯している。
配信は生きている。
「……見えてるか」
声が少し掠れた。
すぐにコメントが流れ始める。
コメント:
「生きてる!?!?」
「落ちたぞ今!!」
「どこだそこ」
「画面暗すぎて怖い」
コメント:
「え、ここどこ?」
「今の落下ガチで死ぬやつだろ」
「なんで生きてんの?」
「……俺も分からん」
正直に言う。
誤魔化す余裕もない。
「多分……ダンジョンの“下層”じゃない」
「もっと……下だ」
コメント:
「は?」
「下層より下って何」
「そんなのあるの?」
ある。
少なくとも、今ここに俺はいる。
そして――
嫌な予感が、止まらない。
普通じゃない。
これは、探索者の領域じゃない。
“死者の領域”だ。
「……使うか」
小さく呟く。
やりたくない。
だが、使わなければ終わる。
ここは、情報がなければ即死だ。
俺は目を閉じる。
意識を沈める。
残留思念。
この場所で死んだ“誰か”を拾う。
……来い。
――ざああああああああああ。
ノイズ。
今までとは比較にならない。
音じゃない。
“群れ”だ。
無数の声が、同時に流れ込んでくる。
『いやだ』
『助けて』
『暗い』
『来るな』
『逃げろ』
『痛い』
『ここじゃない』
『戻れない』
「……っ!」
頭を押さえる。
多すぎる。
処理できない。
今までみたいに“一人の声”じゃない。
“全員”だ。
コメント:
「なんか様子おかしくね?」
「顔やば」
「大丈夫かこいつ」
視界が揺れる。
声が混ざる。
自分の思考と、他人の記憶が、境界を失う。
『お前は誰だ?』
突然。
一つの声だけが、はっきりと浮かび上がる。
低い。
冷たい。
他の声と違う。
“意思”がある。
「……俺は」
答えかけて、止まる。
違う。
これはただの残留思念じゃない。
これは――
「……誰だ、お前」
問い返す。
沈黙。
だが、すぐに。
『ここに来た時点で……同じだ』
声が、笑った気がした。
ぞくりとする。
『お前も……残る側だ』
「……は?」
意味が分からない。
だが。
理解したくない“何か”だけは、伝わってくる。
コメント:
「今誰と喋ってる?」
「え、独り言?」
「やばいやばい怖い」
「……情報を寄越せ」
無理やり話を切り替える。
「ここから出るルートだ」
沈黙。
そして。
『ある』
即答だった。
「どこだ」
『右』
――右。
さっきと同じだ。
だが今回は。
嫌な予感が、さらに強い。
「……条件は?」
ただでは教えない。
そういう“気配”がある。
案の定。
『一つ、置いていけ』
低く、囁く。
「……何を」
『お前の“何か”を』
意味が曖昧すぎる。
だが。
直感で分かる。
軽い代償じゃない。
コメント:
「右って言った?」
「さっきダメって言ってなかった?」
「矛盾してね?」
そう。
矛盾だ。
死者の情報は絶対じゃない。
嘘も混ざる。
そして今。
明確に“取引”を持ちかけてきた。
今までとは違う。
これは――
“利用されている”。
「……断る」
即答した。
その瞬間。
空気が、変わる。
重圧。
怒気。
見えない“何か”が、一斉にこちらを向く。
『選べ』
声が冷たくなる。
『置いていくか』
『ここに残るか』
選択。
だが、実質一択だ。
拒否すれば死ぬ。
受け入れれば――
何かを失う。
「……」
歯を食いしばる。
頭の奥で、さっきの言葉が響く。
“次はお前だ”
ここは、終点じゃない。
入口だ。
俺が“そっち側”になる入口。
コメント:
「なんかやばくね?」
「帰れよもう」
「無理だろこれ」
帰れない。
もう。
落ちた時点で、境界は越えてる。
「……何を置いていけばいい」
口が勝手に動いた。
決めたわけじゃない。
でも。
選んでしまった。
『簡単だ』
声が、近づく。
『お前が“俺たちを使った記憶”』
心臓が止まりかける。
「……は?」
『忘れろ』
静かに言う。
『今まで使ってきた、全部を』
それは。
つまり。
スキルの“核”だ。
それを失えば。
俺は――
ただの探索者に戻る。
いや。
それ以下だ。
「……ふざけんな」
思わず吐き捨てる。
それは、死ねと言ってるのと同じだ。
ここまで来た意味がなくなる。
積み上げたものが、全部消える。
『選べ』
再び。
冷たい声。
『成功を捨てるか』
『命を捨てるか』
コメント欄が荒れる。
コメント:
「え、何それ」
「意味わからん」
「でも選ぶしかなくね?」
静かに、息を吐く。
考えろ。
これは、本当に“選択”か?
死者は嘘をつく。
なら。
これも、嘘の可能性がある。
だが。
違う。
これは嘘じゃない。
“誘導”だ。
俺を、こっち側に引きずり込むための。
「……だったら」
小さく呟く。
「両方、取る」
沈黙。
『……何?』
声が揺れた。
「成功も、命も」
「どっちも捨てない」
ナイフを握る。
そして。
足元の闇へ――
自分から飛び込んだ。
コメント:
「は!?!?!?」
「自分から落ちた!?」
「こいつイカれてる!!」
落ちる。
だが今度は、恐怖はない。
あるのは。
確信。
“選択肢そのものが罠だった”
なら。
選ばなければいい。
壊せばいい。
その瞬間。
闇の中で。
“何か”が笑った。
『正解だ』
ぞくりとする。
さっきの声じゃない。
もっと、深い。
底の底。
そこから響く声。
『ようやく来たな』
落下の先。
そこにあったのは。
“巨大な何か”の、目だった。
――俺を見ていた。




