雲州尼子大包囲二3-2【禁制と撰銭】
対して、三村氏の使者は初めから宗景らの意見など、まるで眼中に無い。
事前に隣国情勢を調べ上げた三村氏側としては、どうして宗景らが激怒しているかを熟知していた。
昨年、秋の段階で、備前国内は猛烈な物価高騰に悩まされていた。これは、主に春先から夏にかけての数度に渡る大きな戦と、美作国で起きた土一揆に起因した物価上昇となる。特に、昨年は備前国だけでなく周辺諸国の戦も重なったため、市場では食料と日用品の買い占めが常態化していたと報告が入っていた。
そこに、男手を取られたことによる国内全体の作物の収穫量の大幅な減少や、毛利勢と大内・尼子勢の対立が巻き起こした瀬戸内の海上封鎖、また、美作国からの避難民流入など、備前の国内経済に追い打ちをかける要因がこれでもかと襲っている。
独立派の独力ではどうにもならない。それほどの負の連鎖に陥っていたことを、三村は十二分に知っている。
そもそも税制面においても、浦上氏側は直接現地に代官を送り込んで税を回収する制度を採用してはいない。代わりとして、税金の徴収証となる配符を国衆らに送り、国衆らが税の徴収を行い、その後に浦上氏へ上納させる間接徴収制を採用していた。
これ自体は、室町後期の日ノ本における従来通りの徴収構造ではあったが、いちど国衆を中に挟む分、中間搾取や着服が横行する原因にもなり、領民からの評判はあまり芳しいものではない。領主側に不入の権が認められてはいたが、領民側が配符元の浦上氏に税の徴収是正や再調査を訴え出る事案もたびたび報告されていた。
当然、昨年も、国衆と領民の間で税を巡る対立が起きていた。
相次ぐ戦費を確保するため、段銭と呼ばれる臨時徴収を繰り返した結果、増税に次ぐ増税に領民たちの間からは悲痛な声が聞こえ始め、領民の怨嗟の声はやがて直訴という形で宗景の元に向かい、逃散も視野に入れた税の負担減を求める訴えが各地から天神山へと寄せられていた。
逃散とは、農民らの集団逃亡を指す。浦上氏としては人的資源の逸失はとても見過ごせない重大案件となる。これにより、浦上氏は昨年の秋から翌年にかけて領民と国衆の間を取り持つため、税の監査を行う検見の派遣と、両者の調停に飛び回らなければならなかったという。
ついで備前を蝕んだのは、商人らの撰銭。
秋が過ぎ、冬が始まる頃、備前の窮状を聞きつけた商人らが、群れを成して冬越し用の品々を携えて近隣諸国からやって来た。
これについては、当初、商人らの物資の補給が備前の命綱になると民衆も浦上氏側も喜んでいた。
しかし、勿論そんなに物事は簡単にはいくはずがない。昨年は一年を通じて周辺諸国でも大きな合戦が絶えなかった分、周囲の国々とて物資不足、金銭不足に悩まされていた。商人らは比較的まだマシな土地から高額で仕入れた品物を、より過酷な状況の備前で、より高い金額で売り払うために訪れに過ぎない。
言うまでもなく、備前の足元を見た交渉が各地で蔓延り、領民らを大いに苦しませた。
当時の日ノ本では、銅銭の絶対量が不足していた。そのため、焼け銭や割れ銭、欠け銭、あるいは違法な偽造貨幣や改造貨幣までもが悪銭と呼ばれ、実際の市場で一定の価値を有して流通していたという。これは銅銭自体足りていない以上致し方ない面はあるのだが、人々にとっては古くから頭痛の種になっていた記録が残る。
この時問題なのは、状態が良く価値の高い精銭(良銭)一枚を悪銭何枚で交換するか、あるいは、精銭何枚当たり何枚まで悪銭の混入を許すかという、交換比率や混入比率が元凶になる。
通常、精銭と悪銭の交換比率は、悪銭二枚で精銭一枚のときもあれば、平安期の京都のように悪銭五枚や十枚で精銭一枚と交換されるなど、時と場合によって大きなばらつきが見受けられた。
これは混入比率も同様で、精銭何枚当たり何枚までは悪銭が混じっていても良いといった具合に取り引きが行われるのだが、それらの比率が全て現地の商人らの胸三寸に委ねられていた。
そのため、時の権力者らは、たびたび撰銭令を出して、悪銭と精銭の交換比率や混入比率を一定にしようと奮闘していた記録もあるが、あまり市場では目立った効果を見せなかった。
まして、天文廿三年末の備前国に、撰銭令を出し、商人らを従わせるほどの権力者が存在しない。
それゆえ、市場では交換比率と混入比率のどちらもが異常な数値で取り引きされることに繋がり、そもそも悪銭の取り引き自体が断られるといった問題のある商いもあったとも伝え聞く。
嫌われた悪銭(東寺百合文書webさま)
https://hyakugo.pref.kyoto.lg.jp/?p=211




