雲州尼子大包囲二2-2
(欲を言えば、この場所から更に北の地を抑えたかったが……)
家親の感覚からすれば、金川方の展開が予想より僅かに早い。
国境の要衝・幸山城を奪取した備中勢が、威力偵察がてら二方向で北に兵士を進めてみたが、成果はあまり芳しいものではなかった。
一挙に攻め取れるかに思われた金川南の徳倉城攻めは難航し、金川攻めの西の橋頭堡と目された長野村も急遽要害化された山頂の砦に阻まれ、後退を余儀なくされた。後続の応援が辿り着いた金川勢は、西は最上稲荷のある龍王山を占拠し、東は吉備津神社を拠点に瞬く間に防御線を構築してしまった。
こうなってしまうと、これ以上の北進は極めて困難になる。
なぜ彼らが備前国内にも拠点を置きたかったと言えば、理由は非常に単純明快。あまり時間をかけすぎると、北の尼子の増援が到着する。その前に、あらかじめ強固な防衛拠点を有しておきたかったからに他ならない。
此度の戦、備中三村氏に与えられた役回りは、備前国で目一杯暴れ回り、尼子の目を東に集めること。
現状、広島湾一帯の戦は、安芸毛利氏含めた同盟側が本土側では有利に事を進めている。
四月の中頃には、毛利氏が厳島の宮ノ尾に上陸し、老朽化していた古城に資材を運び込み、堅固な石垣造りの城へと改築し始めたと聞く。厳島から本土までは約半里。陶・大内が治める周防長門と備前や播磨の親尼子派を分断するため、海上の要衝・厳島の海上交通網を押さえることは軍事的に理にかなっている。
だが、陶・大内側とて指を咥えて待っているはずもない。
今年三月には陶・大内方の警固船百四十艘余りが安芸国沿岸を荒らし回り、四月を越えて、五月十三日には再び毛利勢の後を追うようにして厳島、有浦へ百艘以上の陶の軍船が出現したと聞く。
浦に降り立った陶兵らは、火を放ちながら築城中の毛利方の宮ノ尾まで攻め寄せたという報告も、家親の耳には入っていた
その後の両軍がどうなったか続報が無いので不明。今も戦闘が継続している可能性がある。
毛利氏側から以前もたらされた話では、陶の軍船は五百以上。ざっと見積もって三万を超える数の兵員を輸送するだけの力を敵は有している。毛利氏の軍勢が総勢五、六千と目されるため、厳島さえ制圧してしまえば陶・大内氏に今までの失態を挽回できる余力が十二分にあると断言できる。
三村と毛利は一蓮托生。安芸毛利氏が滅べば、それは即ち備中三村氏が滅びるも同義。
瀬戸内の制海権如何では、西国全土が陶・大内・尼子の三家が共同統治する新たな時代を迎えることになる。ゆえに、この一連の戦いの趨勢を、瀬戸内の民だけでなく西国で生きる全ての人間が固唾を呑んで見守っていた。
(毛利殿は、これより陶を相手に全力を注がねばならん。使者の話では、我ら同盟それぞれに援軍を要請し、皆から色良い返事を貰ったと申していたがどうなるかは分からんな……)
全てが不透明。
現在、厳島に注力する毛利軍主力から見て、石見国長安に向かった吉川勢は一の矢で、備中三村の軍勢が二の矢となる。
どちらの矢も陶と同盟を組む尼子方の陽動を主目的としたものだが、この後、三の矢、四の矢が続かねば、最悪、備中勢のみで出雲尼子の大軍を一手で引き受ける。
家親が無理をしてでも進軍を早めた理由がここにあった。
尼子家当主・尼子晴久の政権掌握がどこまで進んでいるのか。本当に増援が来てくれるのか。その上で、毛利と歩調を合わせながらどの様にして尼子の注意を備前に引かねばならないか。
備える時間など、幾らあっても足りようはずがない。
(備前にて暴れるが我らの役目なれば、多少やり過ぎたところで問題あるまい。毛利殿も目溢しもある。なにより毛利殿の御子息を除けば、我らこそが一番槍。どこの家からも文句を言われる筋合いはないわ)
家親からすれば、苛烈に思われる備前国衆からの収奪も当然の権利。
むしろ今ここで動かねば共倒れになるのだぞと、同盟側の重い尻を蹴飛ばす一撃となる。少しくらいの抗議の声など聞くに値しない。
結果として、備中三村氏と村々との禁制交渉は備前国の南西部一帯に及んだ。
当然その集落の中には備前独立派を支持するものも含まれ、法外な三村氏の要求を前に、備前の民が独立派に泣きつくのは間もなくのことだった。




