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ふたりの天下びとー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第丗二章・雲州尼子大包囲二【天文廿四年五月二十日(1555年6月9日)~】
311/314

雲州尼子大包囲二2-1


 ー2ー



 同年、五月二十五日(1555年6月14日)。天候は曇り。


 空一面を、糊を刷毛(はけ)で引き伸ばしたような薄い羽根様の雲が流れる。備中三村氏当主・三村家親は相変わらず空を睨んでいた。


(……昨日より巻雲の切れ目が増えておる。この天候も持って後二日。作業を急がねばな)


 彼は、彼自身の経験則から迫る雨の気配を空模様から読み取ろうとしていた。

 

 備前国に攻め入って半月余り。昨日一昨日で湿度が急上昇している。心なし家親も具足の下に着込んだ綿の小袖に滲む汗を不快に感じる機会も増えていた。空一面の雲が波打ち、もう少し全体がぼやけるように広がれば、本格的な雨の季節の到来となる。


 現在に至るまでの戦果は上々。


 小麦の収穫は勿論のこと、予想よりも大麦、それも裸麦を手に入れた事が家親を大きく喜ばせた。


 大麦という穀物は、大きく裸麦(はだかむぎ)皮麦(かわむぎ)の二種に区分される。


 どちらも大麦の品種としては同じである。しかし、従来の皮麦と比較して裸麦はその名の通り外皮が剥がれやすく、手で揉むだけで一番面倒な外皮の処理を終えることができる。

 

 これは大きな利点で、実際に口にするまでの精麦処理が非常に簡易化されるため、平安時代後期に裸麦が突然変異で誕生すると、気候が適合した西日本の沿岸部を中心に、鎌倉時代の終わり頃までには皮麦から裸麦への爆発的な栽培種の変革が起きたという。


 しかし一方で、三村氏の治める備中国や他の地域の山間部などでは未だ皮麦が主流となる。


 これは技術的な遅れなどではなく、皮麦が有する優れた耐寒性に由来したものとなる。


 寒冷期の日本では、夏前であっても遅霜の被害があり得た。下処理の面倒があっても、作物が霜にやられて腐ってしまえば元も子もない。それゆえ結果的に皮麦のほうが優先して作付けされていたとも聞いている。

 

 また、家親が喜んだ理由として、一般的に皮麦よりも裸麦の麦飯の方が食感が良いことがある。


 陣中食は軽視されがちだが、食の美味い不味いだけで前線の兵士の指揮は大きく変わる。麦が主食だった時代、裸麦の収穫は兵士達からもおおむね好評だった。


「……目一杯急がせた甲斐があったか」


 現在備中三村の軍勢は、兵を一旦引き下げ、国境の備中国幸山城に本陣を置いていた。ここは伊賀氏が守る備前国長野の砦から南西に約四里(約16㎞)に場所に位置し、備前から運び込まれた物資は、この城の下を通る山陽道を通じて周辺の岡谷、福山、軽部山の三つの砦に集積されつつあった。


 開戦前、幸山城の攻略には多くの血が流れることが予想されていた。この城は、もとは吉備津神社の社務代を務める石川氏に属する城で、天文末年の時点では尼子方に与していた。山陽道に面した小高い山に築かれた幸山城は三方向を崖に囲まれ、攻め難く守りやすい。


 まともに攻めていれば相応の犠牲が出ていたに違いあるまい。


 だが、今回に限っては、三村勢のあまりの進軍速度に、ろくに準備できないまま籠城することになった城兵らは、数日間の抵抗しただけで城を捨てていった。


 拍子抜けするほど簡単に完了した国境突破の後、今では金川城の南五里(約20km)ほどの距離まで迫り、吉備津神社付近にまでが三村氏の勢力下に置かれていた。


 最前線から程よく離れたこの城をありがたく頂戴した形になるが、可能であればもう一越え、備前国内にも橋頭堡を築いておきたかった。


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