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ふたりの天下びとー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第丗二章・雲州尼子大包囲二【天文廿四年五月二十日(1555年6月9日)~】
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雲州尼子大包囲二1-2【伊賀氏について】

 

 伊賀氏の始まりは、鎮守府将軍藤原秀郷とする藤原流とされる。


 それが平安期末に佐藤氏を名乗るようになり、承久四(1210)年に伊賀国の守護を任じられたことで伊賀姓を称することになる。鎌倉期に伊賀氏九代目・伊賀伊賀守朝光の娘が時の執権・北条義時の後妻となった縁から、伊賀氏は幕府の政所執事、評定衆、頭人など要職を歴任し、公卿執権の式部太夫職も兼任した経緯を持つ。


 幕府滅亡の後も没落せず、足利氏より厚い信任を受け、足利家の家人の一人として重んじられると、十七代目・伊賀頼兼の時代には将軍・足利義満の近習として重用され、また、十八代目・伊賀河内守頼氏の時代に将軍・足利義持より四万五千石の御教書の下附を受け、備前国津高郡長田庄の正統な領主となったといわれている。


 そんな伊賀氏だが、最も高名なのが戦国期の当主、二十一代目・伊賀伊賀守(左衛門少尉)久隆。


 地元史上で、彼の存在が最初に確認出来るのは永正年間(1504~1521)。加茂総社の社宮記の記述が初となる。


 社宮記の記述によれば、永正年間のいつ頃かは不明だが、当時、戦災で廃れていた総社の本社と未社等を再建し、久隆が自領より神領百石を宛てがったという。この時、加茂八社の神興観式も彼が同時に復興させたとも記されることから、現在も続く岡山県下三大祭りのひとつ、加茂大祭の中興の祖としても伊賀久隆の名が上がっている。


 次いで、歴史に彼が記されるのは、大永三(1523)年頃、先代の伊賀伊賀守勝隆が隠匿したために、代わって伊賀左衛門尉久隆が跡取りとなった記録。


 また、大永七(1527)年には、領内の虎倉日月宮を虎倉神社と改め、甲冑一領と旗章六流を寄進したほか、尼子氏と同盟を結んでしばらくの天文十三(1544)年には備中湯山の清水(せいすい)寺を再興。大永七年(1527年)正月には、虎倉城の北西にある神域に子宝に恵まれることを願って植樹を行い、天文十八(1549)年には無事に男児に恵まれた御礼として、同地に日吉神社を再建造営した棟札が令和の時代まで現存している。


 その後も天文、永禄、元亀、天正と戦国期を通じ、彼が幾度にも渡って地元の寺社仏閣に対して神領、寺領の寄進、槍、刀などの奉納を継続した記録は複数あげられ、伊賀久隆という人物がどれほど領民の信仰に気を配っていたかが伺える。


 一方で、天文十二(1543)年、久隆が清水寺の鐘を戦で使おうとして盗み出し、その鐘が必要な時には鳴らず、必要でない時のわんわんと鳴り響くというので困りに困り果てた末、龍ノ口の崖上から鐘を投げ捨てたという昔話も存在する。


 この昔話については、世の中完璧な人間など居ないのだと愛着を持たせるために、後世に人間があえて味噌をつけたのだと語る郷土史家が昭和期の吉備町に住んでいたとも聞いていたことがある。


 その人物の弁では、金川城の松田親子が自らの信奉する日蓮宗に傾倒して周囲に改宗を推し進めたのに対し、伊賀親子は領民らに先祖伝来の信仰を捨てさせることなく、逆に信仰の守護者となることで人心をひとつにまとめようとしたのではないか、といった旨の仮説を仰られていた。


 証明は不能だが面白い説だと思う。


 いずれにしろ当時の彼が領民らより深い敬愛を受け、現代に至るまで地元で親しまれる人物なのは間違いない。


 少なくとも今この瞬間、三村氏の脅迫と恫喝に怯えながらも、伊賀氏への協力を惜しまず、危険を冒しながら三村氏の動向を伝えてくれる民の姿があった。


「……悔しいものだな。」


 久隆がぼやく。


 全盛期、備前、備中、美作に跨る複数の領地を誇った伊賀氏は、文明十六(1484)年の福岡合戦にて領地を大幅に削られ、現在は備前国長田庄の周囲をほそぼそと治める地方の一豪族に過ぎない。


 自領が出雲尼子の治める美作国に面していなければ、あるいは、赤松が浦上ではなく伊賀に守護代の座を任せてくれていたならば、と過去を嘆く家臣らの声を、久隆はこれまで何度も耳にしたことがある。守護や守護代に選ばれた歴史こそ持たないが、かつて幕府より重んじられた名家の一族。


 誰も言葉にしないが、松田氏とも同格かそれ以上という認識が家臣らの底にはあった。


(……しばらくは三村も分捕りの仕分けで大掛かりには動けぬであろう。わずかであるが我らにも時が残されている。勝てぬまでも負けぬ準備をせねばならぬな)


 今を恨むことは、そこに繋がる先祖の努力を否定する事に他ならない。


 伊賀を信じて協力する民が居る。それは今まで久隆が守ってきた確たる存在であり、目に見えない繋がりを領民と共有できている確たる証拠ではないか。


 久隆は、家老の河原太郎右衛門とその弟の同帯刀に最前線の指揮を任せると、軍議の為、さらに後方三里(約12km)の信夫山の陣へと静かに後退していった。

【参考資料】


・総社宮さま

総社宮記「永正年中時の地頭、虎倉城・伊賀左衛門久隆公より祈願として本社未社等建立し、祭を元の如く、加茂八社神興観式を為す。神領百石を宛行う」の記載あり。


・加茂大祭(吉備中央町さまHP)……※注:申し訳ありませんが秀吉の天下統一が1509年になっております。おそらく1590年の間違いではないかと。

https://www.town.kibichuo.lg.jp/site/kanko/41.html


・藤陽伝 伊賀氏一族と虎倉城記さまHP

http://kibi2011.blog81.fc2.com/blog-date-201201.html

(伊賀氏の領地)。

・百控「右之領地(備前国所々三万)久々違変ナキ所ニ天下ヨリ知行ノ場所ヲ被替仰其ノ後ノ領地ハ備前ノ国ニテハ長田一円、建部一円、紙工、勝尾、日応寺並ニ備中者吉川、竹之庄、有漢、中津井、水田、作国ハ鹿田、栗原、関、一色、田原也」およそ十八万石。(HPより抜粋)


(その他)

日吉神社の項:樹齢四百余年近隣に比類なき銘木なり。里人この樹の由来を伝えて大永七年(1527年)正月、伊賀藤左ヱ門尉、備前赤坂郡鍋谷村より虎倉城に移るや、居城乾方の鎮守として崇敬し、男子の神授を立願し、この樹を奉植したるに、幾許もなく長子・三郎五郎、虎倉城に生誕生誕せり。よって、その奉賽のため天文十八年(1549年)春、父子の本願を以て、社殿を建立奉献す。(同HPより抜粋)


 宇喜多直家は享禄二(1529年)の生とされるので、天文廿四(1555)年現在、数えで直家二十七。

 上記の地域史がすべて正しいとすれば、伊賀久隆の年齢は最低でも直家の二十歳以上も年長で、この時点の久隆は五十路前後となる。当時の認識としては、かなりの高齢だった可能性がある。

 江戸時代中期の聞き取り調査をもとに書かれた『虎倉記』、安永三(1774)年の岡山藩士の土肥経平が著書『備前軍記』で老将と描かれる久隆のイメージは、こうした地域史をもとに構成されたのではないか。

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