雲州尼子大包囲二1-1
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同年、五月二十日(1555年6月9日)、恨めしいほどの快晴。
梅雨の気配は、まだない。
備前国津高郡長野村(現・岡山市北区長野)近郊、村を東西に分断する鳴谷川の流れのほとり、最上稲荷山妙教寺の置かれた龍王山の北東に位置するこの集落の東岸には、小高い丘を利用した臨時の砦が築かれていた。
この砦、まだ正式に城と呼べるほどの規模ではない。かねてより掘り進められていた土堀に幾重にも防柵と木楯が並べられ、それらがあたかも城壁の役割を果たしている。この臨時の砦こそが、五月の初旬に国境を越えて侵入してきた備中勢の侵攻を阻むために大いに役立った。
この丘を巡る攻防で備前、備中の両軍が入り乱れ、多くの死傷者を出したとされる。
「伊賀守さま」
農夫風の男に混じって、同じ農夫に化けたもう一人の男が振り向いた。
顔を泥で汚し、汚れた着物を羽織るこのもう一人の男こそ、この長野村に即席の砦を築き上げた金川城の西の護り手、虎倉城主・伊賀伊賀守久隆。富山表の三村勢の様子を眺めていた久隆だが、農夫風の男の存在を確認すると一度だけ軽く会釈をして、極めて表情のない顔で男からの言葉を待った。
「やはり三村勢は北上を取りやめ、しばらくは、あの場所より禁制を敷くため周辺の各村々に使者を出しておるようです」
「……御苦労。やはりか。三村の要請に応じた村はどの程度か」
「は、そこまでは分かりかねます。が、聞くところではかなりの徴発。拙の見立てでは払える村と払えぬ村でそれぞれ凡そ半々かと」
禁制とは、領民や軍勢にたいして禁止事項を書いた命令書のこと。通常、攻め入った側に対して、侵攻を受けた側が、集落での過度な狼藉や乱取りの被害を防ぐために一定の貢物を提出して禁制を願い出る。
だが、今回は攻め入った後でなおかつ戦況は三村氏にとって優勢。ゆえに自軍への禁制を出す代償として三村氏側が要求した供出の量は苛酷なもので、三村氏の要望通りに従えば、ひとまず命だけは助かるが、その後は食うか食わずかの瀬戸際に立たされると聞く。
「……惨いことを」
久隆は、抑揚のない声で静かな怒りを口にした。
この伊賀久隆という男について、どんな人と形であったかを論ずる者は少ない。
だが、後世この物語の語り手たちからの評判は総じて高く、信心深い、温厚、実直で義理堅い人物で、外柔内剛の言葉そのままの地侍だったと評する者が多かったことは付記したい。
実際、彼の敬虔深さや人柄にまつわる逸話は、彼の地元・津高郡周辺の加茂総社や龍角山清水寺など多くの場所で確認できる。




