幕間7
チン、と老人が刀を鳴らして言葉を止めた。
時刻はもう分からない。室内の温度は一段と冷え込んだはずだが、酒精に当てられた私はその事を覚えていない。思い起こせば、私の人生初のお酒の失敗とは思えばこの時だった。あとから二人に、「あの日の夜は君は酔っぱらって声も大きくなっていたし抑揚もおかしかった」と随分と笑われたものだ。
人間、酒の場の失敗は早めにしておいた方が良い。その方が傷が浅くて済む。
「……気付けだ。一杯寄こせ」
老人の盃に再び日本酒が注がれた。それを老人はぐいと一息に飲み干すと、にやりと私を見てお前もどうだと言わんばかりに手酌を勧めてくれた。
「こらこら。まだその人は未成年。縁起物の御神酒はさっき含んでもらったから。これ以上はダメだろう」
「……ぐぬ」
老人は酔うと呑ませたがるらしい。青年が老人から日本酒の入った瓶を取り上げると、私の身代わりになるのだと高らかに宣言しながら自分の盃を満たし始めた。
「さて、今回も長くなってしまったけど、置いてけぼりにはなってない?」
青年の声に変化はない。酔ってはいても常の理性が働くらしい。私を試すわけでも突き放すわけでもなく、ただ、老人の語る昔話のひとつひとつに茶々と注釈を入れながら、私の疑問を応えられる範囲で答えてくれていた。
そのためか、このくらいの時間になった頃、少しずつ私は二人の人と形をなんとなく掴み始めていた。
老人は、おそらく岡山県の北部にルーツを持つ。なんとなくだが浦上氏や宇喜多氏、あるいは松田氏などを語る際の熱の入れようはA青年を遥かに凌駕していたように思う。
実際のところ、(これも随分後になってから教えて貰ったのだが)、この時、夜話会で使用した刀の銘は出羽守行広の作で、(少し眉唾物だが)老人の話によれば、江戸時代に入って自分の家が帰農する際、『主家』の方より賜った刀だったらしい。
かわって青年の方は、おそらく地元の出か、あるいはもう少し東の方の出のように思われた。彼は老人よりも遥かに赤松家や宇野氏に関する知識を有していたし、私が現在こうしてつらつらと昔話を書き残している中で、佐用郡と宍粟郡に関する昔話や伝承のほとんどが彼から教わったものになる。
「めちゃくちゃ時代が動いたように思います。たった一年半でここまで変動するものなんですか」
天文二十二年末の主人公・七条政範の結婚から始まり、年が明ければ出雲国から尼子氏が攻めて来る。そうかと思えば尼子氏の撤退を好奇と見て今度は摂津国から三好氏が播磨を奪いに来る。それでいて、播磨や但馬に手を伸ばしていたはずの安芸国の毛利氏は周防・長門の陶・大内氏と決別して好き勝手に戦い始め、極め付けは尼子氏は新宮党の粛正という前代未聞の大事件を引き起こす。
あまりの情報量と混沌振りに、私は頭はオーバーヒートを起こしていた。
「……そうそう、言わんとすることは分かる。だが、史実に照らしてみれば実際そうなる。現代の俺達がこうして頭を悩ませるくらいだから、当時の人間はさぞ生きた心地がしなかっただろうね」
青年が、くくく、と人が実に人が悪く笑う。
「教科書ではここまでは語られん。面白いは面白いだろうが、試験には何の役にも立たん」
「いやいや、『人生は長いものに巻かれよ』という格言を理解するのには最適なんじゃないかな。生徒に教えるのに十分価値があると俺は思うけど、どう思う?」
突然話題を振られて私は戸惑った。
実際、この物語における各国の指導者の面々は、時代の風を読まずには生き残れない。
どれだけ個人に才があったとしても、今日と明日で自分の周囲の世界情勢が瞬時に入れ替わる。時代の風に乗り遅れてしまえば、個人の力は大国の意志ひとつで呆気なく潰されかねない。
「……当時はテレビやラジオがあるはずもなく、携帯電話やインターネットなんかは存在しない。それどころか正確な地図さえない時代だから、自国の中の情勢はかろうじて把握できても、隣の国やそのまた隣の国の状況を正しく理解できている保証がない。正確さを確保しようとしても伝達手段が限られる。よほどの空間把握能力に長けていなければ、今どこの国がどんな状態で、自分達が今後どのように動かなけばならないかなんて分かるはずもない」
「学者先生が俗に言う、『史料が嘘をつく』というやつにも繋がるな」
老人がちびりと盃を動かす。
そう、史料だって嘘をつく。
情報の収集や分析が現代よりずっとアナログだった時代。当時の人間は又聞きした情報の又聞きをそのまま書いたり、真実と明らかに異なる誤伝を書状にしているケースは少し歴史を深掘りしていけば稀によくあることなのだそうだ。それゆえに、現代の歴史研究にでは可能な限り複数の当時の史料を掻き集め、それらを重ね合わせた上で蓋然性を高めていく『史料批判』という作業が必須となる。
「まあ、当時の書状だって機械による自動筆記じゃない。当時の人間が現代と同じ生身の人間である以上、上司への報告が多少手柄を盛ったものだったり、あるいは致命的な失敗を隠蔽するため、なんやかんやと言い訳を綴ったものだったりしても少しも不思議ではあるまい」
人の業といえば人の業。誰がそんな書状を現代に書き残しているか、あえて私はここには書かない。
「……そう考えると、毛利元就という人物は地理的だけではなく、当時の地政学的な空間把握能力が非常に、というより、当時としては異常なくらい優れていたことは分かりますね」
青年と老人の二人が大きく頷く。
ここまでの話の流れからして、それこそ西国全域が手に取るように分かった上でなければ、ここまで広範囲で大胆な策を立案できない。
と、ここでふとした疑問が私の中に思い浮かんだ。
「ん、どうした。そんな神妙な顔をして」
どうぞ、と言うつもりなのか、青年は私の手元に置かれたコップを楽しそうにリンゴジュースで満たすと、頷きながら私に言葉を続けるように促した。
「そういえばなのですが、播磨守護の赤松家の主従関係がだんだん微妙な曖昧なものとなっていった印象を受けたのですが、それと比較して備前国の方は一応の主従関係がなんとなくしっかり保たれているように思うんですが、それは合ってますか?」
私の質問に、青年は少し驚いた様子を見せた。ちょっと意外な指摘だったらしい。
ただ、すぐに青年と老人は顔を見合わせると、二人してにやにやと笑い始めた。あれは絶対に人間的によろしくないタイプの笑顔だと今でも思う。
「確かにそうだな。江戸時代の軍記物であれば、天文年間の終わり頃からもう少し先の時代においては、二つに分裂した浦上氏を含め、他にも半独立勢力と化した備前国人衆の中で、一定の主従関係が保たれているように描かれたには事実だな」
「おっと、それ以上はいけない。続きを語らせてもらおうか」
ーーーチン、と軽快な金打の音が青年の手元から放たれ、物語の続きが語られる。
どうやら備前も備前で苦労していたらしい。




