雲州尼子大包囲4-1
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同、五月十八日(1555年6月7日)、夜。天候は晴れ。
備前国津高郡金川。
月は満月をやや過ぎたか過ぎないか。じんわりと湿気を帯びた空気を二種類の川風が涼やかに運び去る。夏の気配を感じる金川では、普段であればば蛍追いから帰路に就く村人がこの神社に立ち寄る姿も見受けられるが、今この場所はそんな呑気な雰囲気は全くもって見受けられない。同地、臥竜山の麓に築かれた七曲神社の境内には陣幕が貼られ、蛍火すらかき消す程の勢いの篝火が爛々と焚かれていた。
「くれぐれも宜しくお頼み申す……」
「どうか、どうかお願い申し上げもうす……」
夜の帷が降りるのを待って、金川城の者らは室津に向かう使者を送り出していた。境内から階段までの道中、すれ違いざまの使者に何度も何度も兵士らが懇願する姿を、金川城主・松田元堅が少し疲れた様子で眺めていた。
元堅の下に、備中三村氏急襲の知らせが届いてから約半月。
松田氏の軍勢は防戦一方。窮地に立たされ、松田一族の氏神を祀るこの神社の境内が備中衆との戦いの采配を振る最前線となっていた。
この時代、備前・備中の国境は、境目を巡る小競り合いが原因で、後世の備中高松城の様な中規模以上の城がほとんど築かれていない。進軍の時期を大幅に早めた備中衆は、備中経山城(岡山県総社市)の中島輝行の手引きもあり、更に進軍速度を速めることに成功。結果として、松田勢は対処が遅れ、瞬く間に国境を突破を許してしまっていた。
(……まだ天運には見放されておらぬ。このまま耐えれば、挽回の機会はかならず訪れる)
松田勢にとって幸運だったのは、備中衆が国境沿いの関所と小砦群を呑み込んだ先の備前一宮の吉備津宮付近にて兵を二手に分けて北上を開始したこと。
戦国の世の吉備津宮は、現代とは異なり、すぐ近くまで海が迫っていた。
今、この時点における制海権は毛利方にも尼子方にも、陶方にも定まっていない。ゆえに、瀬戸内の海賊衆も時代を二分する今回の大戦を前に傍観を決める者が多く、同宮の門前町の先にある港では、商人らの海運輸送が円滑に進んでいたと聞く。
おそらく、三村の軍需物資もその荷駄の中に含まれていたのだろう。吉備津にて補給を終えた彼らは、余勢を駆りて一気に金川まで勝負を仕掛けた。
だが、彼らは兵力を分散させたことで宿老・宇垣一郎兵衛の籠る徳倉攻めに失敗。西回りの別動隊も、虎倉城の伊賀久隆が機転を利かせて救援を間に合わせたことで、こちらも退却させることができた。
現在、三村の軍勢は金川城の南、四里半(約18.1㎞)の富山表に陣を敷いて明日からの金川攻め向けた軍議を始めたと密偵からは報告が入っている。
平時より籠城の備えは怠っていたつもりはない。
だがそれでも今、戦争を始められるのは非常に都合が悪い。今は五月病みと呼ばれる前年に収穫した米や粟などの蓄えが完全に底をつく時期に当たり、金川では初夏の麦刈りの最中にあった。
(それほど奴らの住む土地と麦の実りに差異があるとは思えぬ。備中者は青麦でも構わず食う腹積もりか……)
元堅の疑念はもっともだが、事実は少し異なる。
これは松田氏の所領・金川が三村氏の所領・成羽に比べて海や太い河川に近いことに関係する。
水は比熱が大きく、空気よりも温まりにくく冷めにくい性質をもつ。それゆえ、暖かい海風が直接吹き込む金川は夜間から朝方にかけての最低気温は圧倒的に高くなる。一方で、日中に関して言えば、海からの距離が離れる成羽の方が盆地としての影響を強く受ける。つまり、快晴の日であれば、太陽光で地面がより温まることで、ほんの少しであるが成羽は金川より気温が上がる。
この年、備中国においても晴れた日が続いたため、わずかにではある日中の気温が金川を上回り続け、それが麦の生育として目に見えるかたちでの差異となって表れた。
これに関しては三村家親の読みが当たったといえる。
その他、春先の根腐れを回避するために、彼らが冬の合間の排水路の開削を徹底したことも大きな成果を上げた要因になるかもしれない。
いずれにせよ、麦の狩り取りが遅れた金川では、早期に戦を終えねば領民は確実に飢える。それに戦が長引けば田植えの時期が遅れる。時期を逃した田植えでは秋の収穫が激減することは誰でも知っていた。
「……ご苦労。当家は掃部助(浦上政宗)殿へ後詰めをお頼みしたが、我らが先に倒れては何にもならぬ。努々遅れを取られぬよう、明朝一番、己が主人に伝えられよ」
【七曲神社】
https://7magari.or.jp/
【麦に関するあれこれ】
・キッコーマン醬油さまHP
https://www.kikkoman.com/jp/kiifc/publication/foodculture/no18_men3.html
・千葉大学 作物学研究室 鈴木正行さま
『作物の生育に及ぼす温度の影響』
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025950/KJ00004280395.pdf




