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ふたりの天下びとー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第丗一章・雲州尼子大包囲【天文廿四年四月廿三日(1555年5月13日)~】
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雲州尼子大包囲3-2


 さらに、天文八年から九年にかけての飢饉は西国でも猛威を振るい、飢饉は飢えと疫痢(えやみ)を呼んだ。畿内ほどではないにしろ、備中においても飢饉の影響があり、西国では人の代わりに厳島の神鹿が身代わりとなって犠牲になったのだという噂が飛び交った。


 長雨被害に流浪民の流入、続く「うんか」の駆除など、三村氏も立ち直るまでに数年を要した飢饉は、同時に尼子から遠征用の糧食を奪い、播磨三木城攻略中の尼子氏の播磨撤退を決めさせる大きな要因にもなったとされる。


 さらに言えば、(あく)る天文十年、吉田郡山において起きた戦闘においても飢饉の影響は少なからずあり、戦地の飢えを予見して籠城策を取った毛利軍に対し、野戦で挑んだ尼子軍は食糧確保に苦しめられたとも聞く。


 やがて毛利家は大内の援軍の力を借りて勝利するのだが、あの時は、大内の援軍到着前に勝負が決するものと考えていた備中衆が大半で、尼子敗北の知らせは、庄氏からの圧力が強まりつつあった三村にとって渡りに船となった。


 尼子軍の敗走を聞いた翌日、家親は毛利方へ戦勝の祝いの使者を送り、接近を図り、毛利方より知己を得た。


 この時の毛利家の喜び様はひとしおのものだったようで、後世の軍記物の中にも『これで備中は毛利のものとなった』と周りの者たちに洩らしたとの伝承が残されている。


 三村と庄。両者の溝は確執に変質し、やがて毛利と尼子の代理戦争にまで発展したのだが、転機が訪れたのは天文廿一年。備中猿掛城を巡る攻防が繰り広げられた後、三村氏側が折れ、長男の元祐を庄氏側に送ることで和議が成立。


 以来、三年ばかりは備中は小康状態が続き、両家の争いは一応の終結を見たと判断する者も多い。


(……だが、信用はできぬ)


 今この瞬間、西国での戦の主導権は毛利方が掴んでいる。だが、戦が長引けば長引くほどに尼子が息を吹き返す。毛利が不利と分かれば、備中は尼子に靡く。それも非常に、簡単に。狭間の小領主とは、いかに勝てる方に味方し、いかに味方が勝っている間に勢力を伸ばし、いかに国内外での発言力を強めていかねばならぬのかという生存戦略に縛られているかを、家親は備中の誰よりも身を持って体験している。


 ならばこそ、毛利方不利に傾く可能性を常に視野に入れて動く必要があった。


 ゆえに、今回の出兵において、三村家親は安芸毛利家以外、全ての周辺勢力の予測を大幅に裏切る速さで備前国出兵の時期を早めさせた。


 春、北の出雲尼子氏に南下の動きがないと踏んだ家親は、領民らを総動員。田鋤、稲などを植え付けを急がせ、約半月の猶予を得た。また、この日この時のために、成羽川の川舟という川舟の徴発も欠かさず、現地の馬借、牛飼いたちなど荷駄の流通も押さえさせた。

 

 全ては速さのため。今、庄氏と三村の間には確かな平穏が構築されている。ならば、いかに早く物資を通過させ、その補給路を継続できるかが鍵となる。


 前年、備前国侵攻時に行軍路の精査したことが、今この時の行軍に大きく生きていた。


 三村家親、四十路を少し回ったばかり。彼の野望は青く晴れ渡る五月晴れの空よりもなお高い。家親は大きく一度天を仰ぐと、遠く備前に向けて西国街道を歩む兵士の列へと戻っていった。


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