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ふたりの天下びとー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第丗一章・雲州尼子大包囲【天文廿四年四月廿三日(1555年5月13日)~】
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雲州尼子大包囲3-1

 

 ー3ー



 同年五月三日(1555年5月23日)。快晴。


 初夏の林道を心地よい涼風と共に、白地に黒の三つ柏の幟旗を掲げた軍勢が威風堂々と歩みを進める。彼らは備中三村氏の先遣隊。彼らこそが対尼子戦における第一の鏑矢となる。もう少し後の時代においては、備中の名門・三村氏が中心となって備中一国を舞台に大立ち回りを行う彼らだが、当時はまだ備中西部を治める一勢力でしかない。


 備中三村氏にとって、昨年の備前侵攻は、今回の派兵向けの事前調査の意味合いが大きかった。


 天文末年頃、この時期の備中三村氏にとって最大の懸念は、三村氏の本拠地・成羽庄と東と南で領地が接していた庄一族の動行といえる。


 元々、庄氏と三村氏は、身分の差こそあれ、それほど仲が悪かったわけではない。


 根元を辿れば、備中国草壁庄を本拠とする庄氏は備中守護代を務める家柄であり、三村氏は小田郡星田郷を本拠とする一豪族の家柄となる。古の時代、二つの家は同じ細川家被官として、いわば上司と部下の関係を築いて備中国内の発展のために協力し合っていた。


 両者の関係が壊れ始めたのは、八十年ほど前の応仁元(1467)年。


 その年、正月早々に巻き起こされた大乱は、その後十一年続く長丁場となり、日の本を東軍西軍に二分させる一大合戦となり、脆弱な幕府の基盤をこれ以上ないくらいにまで著しく衰退させた。


 ゆえに、幕府の目が行き届かなくなった地方では中央政権が発令した法や権力の有名無実化が進んだ。無法の混迷を極めた世を生き残るため、在地の有力者らは自分の力で全てを解決する自力救済の道に舵を切るまで、そう時間はかからなかった。


 この風潮は備中国内でも吹き荒れ、三村氏も庄氏も例に漏れず一族郎党を養うために周囲の豪族たちを喰らいながらその勢力を伸ばした。もちろん全てが全て必要に応じてではない。歴代の三村家当主が野心家であったことは家親も否定しない。


 かつての同僚は、適者生存の制約の元、時に小競り合いを起こす敵へと様変わりしていくのに、そう時間はかからなかった。


 天文年間に入り、同五年頃になると、北の大国・出雲尼子氏が備中国への侵入を開始するのだが、これが両者の溝を決して埋める事の出来ない決定的なものにしていく。


 この尼子氏の乱入に対して、三村氏も庄氏も最初期こそ同じ備中国人としての長年の(わだかま)りを解き、反尼子勢力を立ち上げて互いに手を結んで戦い合っている。


 しかしながら、最盛期の尼子軍を前に急場凌ぎの臨時同盟軍など烏合の衆でしかない。敗れに敗れた備中国人は、新参者の尼子氏に膝を屈する屈辱を得た。敗北とはかくなることかということをまざまざと見せつけられた。


 ただ、尼子の傘下になってからの扱いは、両者にとって悪いことばかりでも無かった。


 出雲尼子氏の統治体制は、地元の有力者のもとに自家の家臣をお目付け役として送り込み、軍役、賦役、税などを監視しながらも、尼子氏としては、地元の訴訟などに関してはあまり口出しはしないという少し距離のある間接的な支配体制を築き始めた。


 この制度は、かつての細川家の統治時代にも通じるものがあり、遠方の為政者が遠方の国人衆を取り込む統治機構としては非常に分かりやすい。一応の最上層の部分には、かつての細川家の代わって、守護代の家系かつ国内の最大勢力・庄氏に挿げ替わり、庄氏には大幅な権限が与えられ、尼子氏の名代となって備中国で幅を利かせるようになる。


 『尼子』という強力な後ろ盾を得た庄氏は、備中国において凄まじい権勢を振るい、その勢いは我が世の春が来たと言わんばかりのものだったとされている。


 だが、その政治体制も長くは続かなかった。


 尼子氏側の用意した支配構造は、備中国人衆の力関係が全て古い時代と同じだった場合にのみ成立する、といういわば基板に問題があった。


 応仁の大乱から始まった混迷の時期を経て数十年。三村氏と庄氏の力関係は、以前とはまるで様変わりしている。かつて一豪族に過ぎなかった三村氏だが、今となっては備中国内の最大勢力の庄氏をはじめ、石川、新見などの国内の名だたる諸勢力の中に当たり前のように名を連ねるようになっていた。


 庄氏側としては、あくまでも三村は家格が下の存在であり、三村は庄氏の意向に従うことが正しいと考える。しかし、三村としては、庄氏も三村も尼子の支配体制下では、あくまでも尼子傘下の同列の備中国人衆。


 妬心、あるいは自分の優位性が脅かされたことによる自尊心の揺らぎ。


 三村の家は庄氏から睨まれるようになるのだが、これには、名目上、備中国は庄氏中心に治めるという尼子惣領家の方針がありながらも、備中国を訪れた晴久の叔父・国久が三村氏と庄氏を同格に扱ったことで、庄氏の三村氏に対する敵愾心をさらに煽ってしまったと伝える者もいる。

【尼子統治下の備中国人衆の扱い】

・本編とはあまり関係ないが、新見荘の新見貞経が天文六年、八年の播磨攻めに従軍しており、備前と播磨表に在陣していた記録が残されている。

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