雲州尼子大包囲1-2
「先だって、石見国においては吉川(元春)様が勝利をおさめ、陶に属する高木、長安(永安)、千穂山の城を攻め落とされ、さらに安芸においても当御屋形(毛利隆元)様が吉田郡山に兵を籠もらせたため、出雲の尼子と周防長門の大内・陶の軍勢は、一時的にではありますが現在分断されております」
毛利の使者がさらさらと木板の上に簡単な地図を描くと、石見の三つの城、安芸の郡山城、それに出雲尼子氏の本拠地・月山冨田の位置を表す大小の石を置いた。
「我らが安芸の吉田郡山は、皆々様ご存じの通りの難攻不落。先の戦いにおいて、尼子三万の軍勢を前にしてもびくともしなかったことは、皆様も広く知っておいででしょう」
先の戦いとは、天文九年の秋から始まった吉田郡山の戦いのこと。この戦いで尼子軍が極めて有利な状況だったにも関わらず、毛利軍の奇襲と奇策に悩まされ、青光山での決戦において大きく破ったことで毛利家の武名は西国全域に鳴り響いた。
特に、猪突猛進の気がある尼子軍において、冷静な目を持ち手堅い戦ができる尼子一門の将・尼子久幸を討ち取ったことは尼子軍にただの一門衆の戦死以上の影響を与えた。戦後も尾を引き、久幸を失った尼子家中では、結果として尼子惣領家の発言権が弱まり、代わって新宮党が勢力を強めた。
しかし、その功績は、毛利家随一の軍略を持つ元就の頭脳と、西国の雄たる大内氏の協力があってこそ成し遂げられた偉業となる。
今回の場合、周囲四方に有力な援軍の見込みめない。
「……それゆえ当家では郡山の増改築を続け、例え尼子の大軍が再来したとて、まず容易には落とされぬように努めてきました」
この時の元就の『居城を落とされてなるものか』という執念は現代でも確認することができ、この時期の毛利家は郡山全域に手を入れ、最終的な曲輪群は大小含めて二百七十余にも及んでいる。播磨最大級の規模を誇る赤松氏の本拠地・置塩城であっても、その曲輪数は七十程度。国力差があるとはいえ、元就親子が自家の防御にいかに努めていたかが数字からでも容易に分かる。
「また、吉田郡山については、事前に尼子方にもある程度の情報が流れるように仕向けておりました。内通者からの情報では、尼子家中では余程の気概が無くば郡山を落とせるとは思っておらぬ様子。しかし……」
対して、今回吉川軍が落とした三つの城は、三城合わせたところで曲輪の数は郡山の十分の一にも満たない。尼子軍が狙うとすれば、先ずは陶・大内氏との間の寸断を解き、その上で攻略が容易なほうを選ぶに相違ない。
「現在畝堀や防柵を講じさせておりますが、恐らくは気休め程度にしかなりますまい」
新宮党の粛正で混乱しているとはいえ、いまだ尼子家中には石見の吉川軍を圧殺するだけの余力を十分に残している。




