雲州尼子大包囲1-1【千本村の依藤塚】
ー1ー
天文廿四年四月廿三日(1555年5月13日)、天候は晴れ。
播磨国揖西郡千本村。おおよそ佐用村と龍野を結ぶ中間地点となる栗栖川に沿って開けた山間のこの集落は、村のすぐ近くを美作街道が通り、街道の難所である相坂越えの拠点として、少なくとも鎌倉末期には宿場町が形成されていた。
古くは元弘三年(1333)、隠岐に流された後醍醐天皇が播磨の雄・赤松円心(則村)の力添えによって隠岐を脱出し、京都に帰る最中にこの千本宿に訪れたという伝承が残る。
また、令和の時代には場所すら分からなくなっているが、室町時代の後期、この千本村には栗棘山慈恩禅寺という臨済宗の寺が存在し、幅六間、奥行き六間ほどの、小さいながらも立派な禅堂が置かれていたとされている。
こちらも文明十二年(1480)、赤松家と縁が深い天隠龍沢が京都真如寺より招聘されてこの地で法要を行った確かな記録が残されている場所でもあるのだが、政範らの生きた時代、この千本村の近く(浄福寺内?)では、奇妙な風習があった事でも知られている。
いわく、『どの様な身分の者であっても、この場所では馬を降りて手綱を引け。それが嫌なら迂回せよ。さもなくば依藤太郎左衛門の霊に蹴り落されるぞ』、と。
依藤太郎左衛門は、名を豊房といい、嘉吉元年(1441)の赤松家滅亡の折、城山城での戦いに間に合わず死に場所をなくした武将とされ、主君の自刃の報告を聞き、追い腹を切ったといわれている。
依藤太郎左衛門は死してなお忠義に厚かったといわれ、この話の影響かどうかは不明だが、かつて享禄四年(1531年)、大物崩れが起きた後の本国備前へ敗走していく途上の宇喜多らの軍勢が、彼の霊が出るとされるこの美作街道を通るという選択肢を取らず、全軍の退避路を宍粟に求めている。
さて、そんな千本村の慈恩禅寺の禅堂の隣、庫裏の中では方丈(禅宗における住職の呼び名)らが出払い、かわって三名の男達が密談を行っていた。
最初の一人は、毛利家の家臣。名前こそ伝わっていないがそれなりに高位の者だったという。
つづく一人は、赤松惣領家の粟生田某(佐渡守?)。
最後の一人は、龍野赤松氏の家臣の高瀬某。
三者は、挨拶もそこそこにお互いの近況を交換し合うと、これからについて、毛利家の使者が会話を切り出した。
「……まずは赤松の皆さまが今もなおご壮健なことをお慶び申し上げます。昨年来より、広島湾東部の野間隆実めが陶と内通し、我らの治める仁保島と海田に侵入したことは既に聞き及んでおられるかと存じます」
やけに丁寧な口ぶりに内心で驚きつつも、赤松の二人は大きく頷く。
「野間氏の反乱につきましては、これはこのほど我ら毛利が勝利をおさめ、御屋形様に傷も無く、兵士らにもほとんど被害は出てござらん。ご安心召されよ」
同じ月の九日、野間軍の侵入を阻むべく南下した毛利の軍勢と野間軍が交戦しあい、一敗地に見舞われた野間軍は大きく後退し、続く翌月十一日の決戦に敗れたことで野間氏は手が詰まり、当主・野間隆実はあえなく降伏していた。
隆実降伏を確かめた後、一刻も早く毛利家勝利の報告と伝える必要があるのだと主君・毛利隆元に背中を押され、ここに走り通して来たのだ、と毛利家の使者は胸を張って答えた。
(参考)
【天隠龍沢】
播磨国千本生まれの臨済宗の僧侶。一度は滅亡の憂き目にあった赤松家の嫡流・赤松時勝(赤松家中興の祖・赤松政則の父親)を庇護し、天隠の人脈により近江浅井郡丁野村の成願寺に幼少の時勝を保護させることで赤松の血統を後世に繋いだ。時勝の息子の政則とも親交があり、漢詩、とくに散文を得意とした。
【依藤塚】
「YORIさんのHP」 さま
非常に詳しく依藤一門について記載されていらっしゃいます。
(規約にしたがいリンク先はこのページとなっております)
https://www.eonet.ne.jp/~yorisan/index.htm
【依藤太郎左衛門の話】
・申し訳ありません。たしか旧版の『ひょうごの民話(神戸新聞総合出版センター)』に記載があったと思うのですが、引っ越しの際に逸失しまい確認が取れていません。この怪異は、嘉吉の乱より三百四十年後の天明六年(1786)、太郎左衛門の子孫・加東郡小田の郷士、依藤清兵衛が五輪塚を建てたことで終息したと伝わっています。「YORIさんのHP」内の『浄福寺由来』と、書籍版の『依藤塚』では一部違いが確認されており、一応、X(旧・Twitter)に写真の一部を載せておきます。




