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ふたりの天下びとー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第丗章・西播怪談実記草稿十五【天文廿四年正月十八日(1555年2月9日)~】
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西播怪談実記草稿十五3-2【播磨一本堂他】

 

 政範が手の内側に唾を吐いてみると、今度は泡が立つ。結果は吉。


 それでも念のためと、警護の者にどうしているのかと問いかければ、彼らは政範の心配を察したのか、薄暗い街道越しに指を差して返答とした。


「……なんでも、姫路より歩き通しだったとのことで。血を雨で流しておるのでしょう。一石二鳥とはこのことです」


 何のことはない。道を挟んだあちら側の集落では、馬借らが軒下を拝借して慣れた様子で馬の瀉血を行なっていた。


 瀉血は、当時から現代まで続く民間療法。


 古来より、日本では馬という生き物が長時間運動する事で疲労が蓄積され、筋肉中や関節内の血液の循環が悪くなり、鬱血を引き起こし、やがて正常に歩けなくなるという概念を有していた。


 全ての物が有限だった時代。馬は一つの大きな財産と見なされていたため、そんな馬と長く付き合っていくために、日常的な疲労回復目的の瀉血が行われていた。


 このとき瀉血に使用される針は馬針と呼ばれる。長さは三寸前後、鉛筆をやや細くした程度の太さの針を持って治療に当たり、生来臆病な馬を(なだ)めるため、一人が手綱を持ち馬の注意を引きながら、もう一人が狙いを定めてぶすりと刺す。


 刺突場所や回数などに関しては、経験則がものを言い、通常、腰や肩など馬の身体で熱を持ちやすい所を狙って複数箇所に渡って刺すとは聞く。しかしながら、馬の瀉血に適した天候、日時、馬の具合などは地方によって異なるともいわれ、播磨国においても独自の瀉血法が存在した可能性が否定できない。少なくとも旧佐用町では、平成中期頃までに完全に失伝しているものと思われる。


 松明を持った家人の案内で湯屋まで通されると、湯屋の外では先客が火照った身体を冷たい雨に晒して冷ましていた。


 中央の儀礼はもっと堅苦しいものがあるだろうが、ここは田舎の風呂。先客は特に気分を害した様子もなく、政範にも風呂に入るように右手で促したため、政範らが一礼して先客の前を通り過ぎる。


 今度は、家人は先に室内に入り、照明役として部屋の中を明るく照らす。


 守る作法としては、せいぜい風呂に入る際に必ず左足から入ること。


 この「左足から入る」という所作については分からない。


 政範の青年期であるところの天文年間の末は、室町中期の茶人・村田珠光(むらたじゅこう)から後の千利休へと続く日本の茶道の錬成期にあたり、今日の私たちが知るところの、表千家の「左進右退(左から入り、右から出る)」、裏千家の「右進左退(右から入り、左から出る)」といった概念はまだ完成していない。


 では別の視点から、となると、日本の風呂文化に大きな影響を与えた仏教の影響が考えられる。


 特に、赤松惣領家は禅宗の一派・臨済宗を厚く信仰しており、禅宗においては修行の一環として、座禅堂などに入る際には必ず左足から入堂することが作法とされている。恐らくはそこから生じた作法だったのではないだろうかとは推察はできなくもない。


 ともあれ、この「左足から入る」という作法は、元亀元(1570)年六月の『赤松則房雑談聞書』にも記載があるため、少し長めに書かせてさせていただいた。


 家人は政範を室内に招き入れると、中心部の鍋に水を注ぎ足し、政範が衣服を脱ぐのを待ってから、熾火(おきび)のままで鍋から水蒸気が発生するまで待つように伝えて一礼すると、外に出て部屋を閉め切る。あとは湯屋の前で番をしながら時を待つ。

 

 このとき、燻りの中に薬湯としてヨモギや石菖せきしょうを使用する地方もあるが、播磨における文献は発見できていない。

 

 入浴時間は、部屋が十分温まってから小四半刻を目安とする。他には、肌にじんわりとした汗が浮かび、額の汗が垂れ始めてから、そこから百を数えて外に出るという者もいたようだが、室内で水蒸気の発生する量によってかなりのバラツキがあるため一概には言えない。


 それを何度か繰り返し、肌の表面に垢が浮いたころを見計らって、手ぬぐいなどをこすりつけて垢をこそげ落とす。


 あとは冷水や少し温めた湯で身体を洗い流し、冷たい外気に身体を晒して汗が引くのを待つ。

 

 この日、夜遅くに雨は一度上がりはしたものの、時折強く叩きつけるような雨は残り、政範が夜の床に就く頃には大きな風も吹き荒れ始め、風は荒々しくも次の季節の訪れを知らせていた。

【馬の瀉血(補記)】

・現代においては、笹針治療についての考え方が変化し、馬に対するメリットよりもデメリットの方の大きいとされたことなどを受け、令和四(2022)年4月、JRA(日本中央競馬会)がJRA登録馬について、管骨骨膜炎(エソ)の治療を目的とした焼烙、ブリスター(化学熱傷利用法)と共に、旧来の笹針による瀉血治療を禁止事項と定め、一部の獣医師界隈、競馬関係界隈、ウマ娘界隈で話題になった。


【石菖】

・石菖(学名: Acorus gramineus)はショウブ科ショウブ属の多年草。


WikipediaさまHP『セキショウ』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6


【石菖の蒸し風呂】

・施設概要を参考

 石菖を使用した蒸し風呂に入ると鎮痛成分(テルペン)を含む独特の芳香を放つ。石菖の香りのすばらしさは詩人の野口雨情も「豊後鉄輪、むし湯の帰り、肌に石菖の香が残る」と詠っている。播磨にも石菖の群生地が存在しているが蒸し風呂に使用されたかは不明。

(参考:別府市鉄輪むし湯さま)

https://www.city.beppu.oita.jp/sisetu/shieionsen/detail11.html


【野口雨情】

・野口雨情は明治から昭和初期にかけて活躍した詩人。『十五夜お月さん』『シャボン玉』『青い目の人形』『七つの子』『赤い靴』『証城寺の狸囃子』などは雨情が作詞したもの。日本三大童謡詩人のひとりにも数えられている。

 昭和二年、伯耆国三朝温泉に訪れた雨情が同地の依山楼岩崎にて『三朝小唄』を作詞したところ、全国的な人気を博し、『名湯三朝温泉』の名を全国的なものにした。そのため、三朝町では雨情に非常に親しみを持ち、彼の功績を伝えるため、雨情の詩が描かれた石畳があり、彼の名を冠した温泉施設を持つ宿を有している。また、昭和十一年には、播磨国の相生を訪れた雨情が、当時造船業が盛んだった相生の港を眺めながら『播磨港ふし』を作ったとされ、雨情が残した『播磨港ふし』の詩の一片は、相生市那波にある大島山城(那波城)跡に建てられた文学碑にも記される。ー


その他、同じ詩人の石川啄木とは、小樽日報の時代から親交があった人物としても知られている。


(三朝町さま:三朝小唄)

https://www.town.misasa.tottori.jp/files/31015.pdf


(相生市HPさま 文学碑めぐり(15)野口雨情大島山詩碑)

http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/hi/hi15.htm


【雨情(温泉施設)】

・橋津屋さんの離れ湯。橋津屋さんは筆者個人に思い入れがあり、鳥取で冬のカニを食べるなら個人的に一度は訪れてほしい宿。河原風呂と足湯『薬師の湯』、遊技場の近くなのでいろいろ利便性が高い。カニ鍋が絶品。家族風呂が外湯になるため予約が必須のほか、時間帯によって男女の入れるお風呂が異なるため注意。

(橋津屋さまHP)

https://www.hashizuya.co.jp/


【大島山城(那波城)】

・海老名氏の城とされるが、嘉吉の乱以降、特に室町後期の使用状況は不明。

(城郭放浪記さまHP『播磨大島山城』)

https://www.hb.pei.jp/shiro/harima/ohshimayama-jyo/

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