花が咲いた日
――花が、そこにあった。
リリア・フェルノートは、目の前の光景を理解できずにいた。
白いレンガの壁に背を預け、膝の上に広げたノート。そこに描いたはずの花が、いつの間にか紙の上から姿を消していた。
代わりに、目の前に咲いている。
乳白色の花弁。細く伸びた緑の茎。朝露のように輝く、小さな水滴。
風が吹くたび、花弁がかすかに揺れた。
「…………え?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
描いた花と、目の前の花を交互に見つめる。
何度見ても、同じだった。
花びらの枚数も、少し歪んでしまった茎の形も、間違いなく自分が描いたものだ。
けれど。
そんなこと、あり得るはずがない。
この世界に、絵はないのだから。
魔法ならある。
火を生み出す魔法も、水を操る魔法も、風を起こす魔法だってある。
けれど、それらはすべて魔法陣や魔法紋を通して発動するものだ。
紙に何かを描いたところで、それが現実になるなんて話は聞いたことがない。
少なくとも、リリアは知らなかった。
「なんで……?」
恐る恐る、花に手を伸ばす。
指先が花弁に触れた。
柔らかい。
そっと撫でると、花弁が指の動きに合わせて揺れた。
幻なんかじゃない。
夢でもない。
確かに、そこに存在している。
「うそ……」
リリアの胸が、どくん、と大きく跳ねた。
嬉しい。
そう思った。
魔法が使えない自分には、何もないと思っていた。
どれだけ努力しても、どれだけ願っても、周囲の人々が当たり前にできることさえ、自分にはできなかった。
だから、せめて。
せめて自分の手で、何かを生み出せたら。
そんな小さな願いを込めて、花を描いたのだ。
それなのに。
まさか、本当に咲いてくれるなんて。
「……ふふっ」
こらえきれず、笑みがこぼれた。
嬉しくて、信じられなくて、どうしたらいいのかわからない。
それでも、目の前の花は消えなかった。
朝の光を受け、花弁の縁がきらきらと輝いている。
まるで、そこだけ世界の色が違っているかのようだった。
――そのとき。
花の中心から、小さな光がこぼれた。
「えっ?」
リリアは目を見開いた。
淡い光が、花弁の隙間からふわりと浮かび上がる。
それは魔法を使ったときに生じる光とは、どこか違っていた。
もっと柔らかくて、もっと不思議な。
まるで、水に溶かした絵の具が光を帯びたような輝き。
リリアは息を呑んだ。
美しい。
そう思った瞬間、胸の奥が不思議な熱を帯びた。
初めて感じる感覚だった。
魔法を使えたことのない自分には、魔力が巡るという感覚すらわからない。
それなのに、今だけは。
自分の中に、何かが確かに存在しているような気がした。
「これが……私の……?」
言いかけて、口をつぐむ。
自分の力。
そんなふうに言い切ってしまっていいのだろうか。
偶然かもしれない。
何かの見間違いかもしれない。
それでも。
リリアは、もう一度花を見つめた。
――もう一度、描いてみたらどうなるのだろう。
そんな考えが頭をよぎる。
ノートに目を落とすと、花を描いたページには、まだ淡い色の跡が残っていた。
その隣には、さっきまで何もなかったはずの文字が浮かび上がっている。
『やっと見つけた』
「……え?」
リリアは瞬きをした。
見間違いではない。
確かに、そこに文字がある。
誰が書いたのだろう。
そもそも、いつから?
考えれば考えるほど、わからないことばかりだった。
けれど、文字を見つめているうちに、不思議な感覚が胸の奥に広がった。
ずっと昔から知っていた言葉のような。
初めて目にしたはずなのに、懐かしいような。
「……どういう、意味?」
返事をする者はいない。
花はただ静かに揺れていた。
遠くから、受験生たちの声が聞こえてくる。
そうだ。
ここは魔法学院の入学試験会場の近く。
いつまでも、こうしているわけにはいかない。
リリアは慌てて周囲を見回した。
幸い、今のところ誰もこちらに気づいていないようだった。
花をどうにかしなければ。
そう思って手を伸ばしかけた、そのとき。
「……何してるんだ?」
背後から、声がした。
「ひゃっ!?」
リリアは飛び上がった。
慌てて振り返る。
そこに立っていたのは、学院の制服に身を包んだ少年だった。
年齢はリリアと同じくらいだろうか。胸元には受験生であることを示す小さな札がついている。
少年は不思議そうにリリアを見つめていた。
そして。
その視線が、彼女の隣へと移る。
「……花?」
少年の表情が変わった。
目を丸くし、花を凝視する。
無理もない。
花が咲いているのは、花壇でもなければ、土の上でもない。
白い石畳の上。
そこには、花が育つための土も、水もない。
ましてや、誰かが植えた形跡もなかった。
「え、ちょっと待て。なんだよ、それ」
「あ、あの……これは……」
リリアは口ごもった。
どう説明すればいいのだろう。
自分が描いたのだと言えば、信じてもらえるのだろうか。
そもそも、どうして花が現れたのか、自分自身にもわかっていないのに。
少年は、そっと花に顔を近づけた。
「本物……だよな?」
花弁に触れようとした指が、ぴたりと止まる。
花の中心から、再び淡い光がこぼれた。
「っ!?」
少年が勢いよく顔を上げた。
「おい、今の見たか!?」
「えっ、あ、はい……」
「なんだ、これ。魔法なのか? でも、こんな魔法、見たことないぞ……!」
少年の声が、少しずつ大きくなる。
まずい。
リリアは直感した。
このままでは、ほかの受験生にも気づかれてしまう。
「あの、お願いですから、あまり大きな声を――」
「おーい! ちょっと来てくれ!」
少年が振り返り、試験会場のほうへ向かって声を張り上げた。
「変なものがあるんだ! こっち、こっち!」
「ま、待ってください!」
リリアの制止もむなしく、少年の声に反応した受験生たちが、次々とこちらを振り向いた。
「何だ?」
「どうしたんだ?」
「おい、あそこに何かあるぞ!」
人が集まってくる。
一人、また一人。
好奇心に満ちた視線が、リリアと、その隣に咲く花へと注がれていく。
「花……?」
「なんで石畳に花が咲いてるんだ?」
「誰かの魔法か?」
「いや、魔法紋が見えないぞ……?」
ざわめきが広がった。
リリアは、ぎゅっとノートを抱きしめた。
どうしよう。
どう説明すればいいのだろう。
ただ花を描いただけなのに。
ただ、花が咲いたらいいなと思っただけなのに。
それなのに、どうして。
――どうして、こんなことになってしまったのだろう。
花は、相変わらず淡い光を放っていた。
その光は、まるで周囲のざわめきなど知らないかのように、静かに、静かに揺れている。
そして。
「……君」
人だかりの向こうから、低い声が響いた。
受験生たちのざわめきが、ぴたりと止まる。
「その花を、出現させたのは君か?」
リリアは、ゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、試験官の制服を着た一人の教師だった。
その目は、花ではなく。
花の隣に立つ、リリア・フェルノートを見つめていた。
逃げ場は、もうなかった。




