5:その男、「残虐公 ルドルフ」
いきなり降ってきた声に、私は思わず目を見開く。
(まさか、猫狩り……?!)
そう思った私は、とっさに身体を起こし、
ジャンプしようと後ろ足に力を入れる。
「待って。無理に動いては」
響く青年の声。
と同時に激痛が走り、私はその場にうずくまる。
「やはり……」
そう言うと、青年は私の首下に手を回し、
腰を持ちながらそっと、抱き上げた。
「怪我をしていて、動けないのでしょう?
でなければ、こんな目立つ場所に、一匹でうずくまっていたりしませんものね。
まだ子猫のようですが……。親とはぐれたのですか?」
青年の声色は優しい。
が、私はなんとか逃げだそうと、前足をがむしゃらに動かす。
「……っ」
青年が小さく声を漏らす。
思わず手を止めると、彼の指先からは、血が薄くにじんでいた。
私の爪が、彼の皮膚を掻いたのだ。
瞬間、背筋に緊張が走る。激高されるかもしれない。殺されるかもしれない。
しかし。
「こんなに小さいのに。元気ですね」
苦笑交じりに彼がつぶやいた瞬間、その顔に薄い月明かりが差した。
分厚い雲が流れ、月が顔を出したようだ。
私は思わず、息を飲む。
彼は綺麗な人だった。
色素の薄い肌に、コバルト色に輝く髪。
澄んだ青碧色の瞳には、微かな光が、波打つボートのようにゆらゆらと映っている。
彼は細い目をさらに細くして、小さく笑んだ。
「安心してください。なにもしませんよ。
あなたまで、私を恐れないでください」
ぬくもりのある、透き通った声。
青年は、そのまま骨張った手を私の背に当て、ゆっくりと撫でた。
その掌は温かい。
冷えきっていた私の皮膚に、柔らかい熱が溶けていく。
筋の緊張が、徐々にほどけていくのを感じる。
彼は黙って、私を抱いていた。
彼の呼吸に伴い、彼の胸がゆっくり上下する。
そのリズムを私は、段々と心地良いと思うようになっていった。
そうして、幾程の時間が過ぎたのだろう。
「……安心して、いただけましたか?」
青年は、手を止め、静かに語りかける。
いつの間にか、身体の震えは収まっている。
私は恐怖を忘れ、そっと、彼の瞳を仰ぎ見た。寂しげで、けれど温かい眼差し。
(この人は、恐ろしい人ではない、のかな)
そう感じた瞬間、一気に身体の力が脱けた。
その判断が誤っている可能性は十二分にあったが、
今の私は、疑うことに疲れていた。
この人は猫狩りかもしれないが、たとえそうであったとしても、いい。
久しぶりに触れた人の優しさ。
忘れかけていた温もり。
今この瞬間、寒さを忘れられるのであれば、
その先に待つのがどんなにおぞましい展開であっても、受け入れよう。
箱に残った最後のマッチで暖をとるような、そんな心地だった。
すっかりおとなしくなった私に、彼も安心したのか、青年はふわりと微笑んだ。
そして、上着として着ていたローブのボタンを外すと、そっと私を持ち上げた。
「今から、私の家に来ませんか?
こんなところに、ひとりぼっちで置いてはいけない。
しばらくこの中にお入りください。すぐに出してあげますから」
そういうと青年は、私を懐へと押し込んだ。
私の顔だけを胸元から外に出すと、
彼は、私の腰を服の外から支えながら、ゆっくり歩き始めた。
「……あなたは本当に温かいですね。寒い夜には、心地良い」
速度を落とさぬまま、彼はそう言って空を見上げた。
つられて目線を上げると、そこには満天の星空があった。
冬の澄んだ空気に瞬く星々は、どこまでもどこまでも、広がっている。
「今夜は、星が綺麗ですね。ほら、星座がはっきりと見える」
そう言ってふぅとため息を吐く青年。
私も、そのあまりの美しさに感嘆の息を漏らした。
星空なんて見るのは、何年ぶりだろう。
私が住んでいた屋敷は、中心街より田舎なので、星の数は、ここより多いはずだ。
が、私は今まで、自分の上空にこんな綺麗な星々が輝いていることを、知らなかった。
空を見上げることすら、忘れていた。
しばらくぼんやり夜空を眺めていると、急に青年がフフッを肩を揺らした。
「そんなに首を上げていると、痛めますよ」
そう言って、ポンと私の頭に手を乗せる。
「星が、好きなのですね」
彼は指先で、しばらく私の毛を優しく撫で続けていたが、ある瞬間、止まる。
それに気がつき目線を前にやると、桟橋が見えてきた。
(この桟橋の先にあるのは、城?)
――大通りの桟橋を越えた場所にあるフォード城。
あの城から生きて帰ってきた猫はいねぇ。
昼の猫の言葉を思いだし、心臓にヒュッと寒気が走った刹那。
「しばらく、隠れていてください」
彼はそう言うと、私の頭を無理矢理服の中へと押し込んだ。
急に視界が閉ざされる。
最初こそ、猫狩りかもしれないと思い身構えていたが、
彼の声色と態度から、すっかり警戒心を解いていた。
疲れていたこともあり、万が一猫狩りでも、仕方がないとどこか諦めていた。
が、いざ実際にその可能性がでてきた途端、私の鼓動は跳ね上がる。
と、その時だった。
「お帰りなさいませ、ルドルフ様」
低い男性の声が鼓膜を揺らす。青年は会釈でもしたのか、少しだけ重心を前に傾けたようだ。
(ルド、ルフ……?!)
思わず息を止めた時、今度は別の男性の声が響く。
「ルドルフ様、お帰りなさいませ。
ご報告ですが、伯爵婦人、メアリ様の処刑は、今し方、つつがなく終了いたしました」
「……そうですか」
青年は冷たい声で返す。
「メアリ様は、最後に手紙を残されています。こちらです」
ガサガサと紙の触れ合う音が聞こえる。
男性が手紙を渡そうとしているのだろう。
そして、青年が腕を上げた時だった。
衣服の内側の布が私の鼻をこすり、思わず、息を短く吸う。
「……クシュッ」
私のくしゃみの音と同時に、青年の動きが止まる。
「なんです、今の音は?」
不審げな男性の声が聞こえた直後に、視界が開ける。
青年が慌てて胸元のボタンを外し、私の顔を出したのだ。
そこは、石レンガに囲まれた薄暗い空間。どうやら建物の内部のようだ。
「猫、ですか?」と甲冑を着た男性は、眉をしかめる。
青年は諦めたようにため息をつくと「怪我をしていたので」と小さくつぶやく。
「……とにかく、この手紙は、後で目を通します。
今日はもう、直接部屋に戻ります」
すると男性は「はっ」と腰を曲げる。
青年はそのまま、早足で石階段を上っていった。
彼の動きに合わせ、私の身体も揺れる。
私はおそるおそる、青年の顔を仰ぎ見た。
さきほど、この青年は確かに「ルドルフ様」と呼ばれていた。
少年王、クラウス陛下の腹違いの兄、ルドルフ・フォード公爵。
先代王の亡き後、彼の名の下に処刑された人物は数知れず。
そのためについた渾名は「残虐公」。
私は、この予測もしなかった事態にただただ、唖然とする他なかった。




