2:猫になっても、変わらない
私の身体が、徐々に動作を取り戻してきたのは、それからしばらく後のことだった。
最初は瞼が重く、中々開き続けることができなかったのだけれど、
少しずつ、それも回復してくる。
私はなんとか身体を起こそうと、地面に手をつき力を入れた。
が、瞬間目に入った、私の手。
(……え?)
第一印象はそれだった。指先に力を入れる。
確かに、その結果動くのは、今、目にしている手、
なのだがそれは、薄い灰色の毛がびっしりと生えた、小さな「獣の前足」だった。
一瞬、思考が停止する。
そういえばエドガーは、立ち去る前に言っていた。「ふさわしいる姿」とかなんとか。
(私は、人ではない、別の何かに、変えられた、ということ?)
そう思った瞬間、いやいやと首を振る。
確かに、呪術――「呪い」と言われて思いつくのは、相手を病気にしたり、カエルに変身させたり、と言った類いのことだ。
しかしそれらはすべて、おとぎ話の中の出来事。実際にそんなことが、起こりえるはずがない。
そもそも、「呪術」という概念すら、今の私たちには空想上の産物にすぎない。
私は一度、深呼吸をしてみた。そして再び手に力を入れ、上半身を起こそうと試みる。
しかし、無理だ。
全くもって。少しだけ地面から手を浮かせることはできるものの、足だけでは身体を支えきれず、すぐに倒れてしまう。
私は立つことを諦めて、おそるおそる、四つん這いの状態で移動してみる。
右手を上げ、左足で土を蹴る。それを左右交互に繰り返す。
するとどうだろう。とても楽に進むことができる。
それが分かった瞬間、私は一目散に走り出した。
今、自分の姿がどうであろうと、この状況を一刻も早く、お父様に知らせなくては。
父、ゼスト・アルハイムは、このフォード王国の魔術学会会長だ。
彼に、エドガーと名乗る変な呪術師が、
父、もしくは妹のリネットに害をなそうとしている旨を告げなければ。
四つん這いの状態で、私は木々の間を駆け抜ける。
こうして森を抜けた私は、アルハイム家の屋敷へとたどり着く。
辺りはすでに薄暗く、月が輝いていた。
鉄柵状の門をすり抜け、私は前足で、屋敷の玄関扉を打つ。
が、なにも反応はない。
それもそうだ。
この身体の扱いが慣れてない上に、この手(前足)は以前に比べて格段に小さい。
音が微かに響くだけだ。
声を出そうとも思ったけれど、まだ声帯が不完全なのか、声が出ない。
仕方なく私は、中庭の方へと回った。
中庭には、父の部屋に直接繋がっているテラスがある。
ガラス張りになっているため、カーテンが開いていれば、中の皆に私の姿を確認してもらえる。
が、運悪くその日は、カーテンが閉まっていた。
中が見えない代わりに、そのガラス扉に映ったのは、一匹の小さな猫。
(この猫が……私?)
私は瞬間、呼吸を止める。そっと身体を動かしてみると、ガラスに映った猫も、同時に動く。
「人間ではない何か」に変えられたことはわかっていた。
しかし改めて姿を見た今、事実をすぐには受け入れられず、呆然と立ち尽くす。
が、これではいけないと、顔を振った。
(私のことはいいから、先にお父様に気付いてもらわないと)
前足でコツコツとガラスを叩くが、誰かが気づく気配はない。
カーテン越しに明かりが漏れているので、誰かが室内にいることは確かなのだけれど。
その時だった。
「ゼスト様、失礼いたします」
ガラス扉の向こうから、メイドさんの声が響く。
どうやら、部屋の中に入ってきたようだ。
「なんだ」と答えるお父様の声も聞こえた。父は最初から中にいたようだ。
「夕方過ぎに、断罪の森へと向かわれたコレット様ですが、未だにお戻りではありません」
「断罪の森へ?なぜそんな時間に、そんな場所へ?」
お父様の声に、一拍の間の後、メイドさんが返す。
「ゼ、ゼスト様が、魔術に使うための木の実を取りに行けと命ぜられたので……」
おそるおそる告げるメイドさんに、お父様は「そういえば、そんなことも言ったな」とこぼす。
どうやら、自ら命じたことを忘れていたようだ。
「で、なんだ?帰ってきていないから、どうだというのだ?」
お父様は、うんざりした様子で尋ねる。
「もう、就寝前の時間でございます。見回りの者を、森に行かせましょうか」
「必要ない。分かっているだろう。あいつの立場を」
そう父が告げると、メイドさんは何も返さなかった。
「話はそれだけか。ならば去れ。
明日は国の魔術軍用協議に呼ばれている。
陛下と王兄ルドルフ公も参加される予定だ。
あいつのことを、気にしている暇などない。くだらないことをわざわざ知らせてくるな」
吐き捨てるような父の声。
数秒の沈黙が続く。
その後、メイドさんの「失礼いたします」の言葉だけがこちらに聞こえた。
どうやら、部屋を去ったらしい。
私は、その場に立ち尽くす。
このような予感がない訳ではなかった。
しかし、それでも私は、この呪われた姿のまま、死に物狂いでここまで駆けてきた。
それなのに。
などと思っている瞬間だった。
ドスッと、床を鳴らす音が聞こえる。お父様の足音だろう。
――ドスッ、ドスッ、ドスッ
それは一定のリズムでこちらに近づいてくる。
私はとっさに、身構える。
立ち去るべきか、留まるべきか、その判断をするより前に、部屋の分厚いカーテンが開けられる。
――ガサッ。
そして目線を上げると、そこにはバスローブ姿でこちらを見下ろす、お父様の姿があった。
「ニ、ニャア」
私は「お父様」と声をかけたつもりだった。
しかしその声は情けないほどにしわがれた、猫の声としてこだました。
お父様はこちらをにらみながら、持っていたワイングラスをサイドテーブルに置いた。
そしてガラス扉を開け、眉をしかめながらこちらを見下ろす。
「なんだ、おまえは」
お父様の声は、想像以上に冷たく、低い。
普段、彼は動物に話しかけるような気さくさなど持ち合わせてはいない。
ということは、お父様は私に気づいて――
「なんだその姿は。ふざけているのか?」
そう言って、お父様は私の首根っこを乱暴に掴み、持ち上げた。
「この姿……猫に、変えられた、ということか?」
「ニ、ニャ」
「言葉も話せないのか。この出来損ないが」
その瞬間、私の身体は宙に舞う。
どうやら投げ捨てられたらしい。
が、私は自然と受け身の体制をとることができ、テラスのレンガ床に着地した。
「こんなことが現実に起こりえるとは……。これは呪術か。
ということは、あのエドガー・ロウの手にかかったのか」
そう言いながら、お父様は顎髭をなでる。
「呪術でそこまでできるようになったとは。面白い。
いつも学会になにかと言及してきているようだし、一度呼び出してもいいかもしれんな。
しかし緊急性は低い。
呪術は魔術と違い、対象者が限定的で軍用には不向きだ。
研究する価値はあるかもしれんが、優先すべきは他にある」
そう、独り言のようなセリフを長々とつぶやいた後、お父様は私を一瞥する。
「それにしても、あんな低脳の変質者ごときに捕まるとは。
コレット。おまえには本当に呆れた。
わかっているだろう。おまえに価値などないことは。
今までは、一応、娘ということでこの屋敷に置いてやっていた。
が、呪われ、獣にまで身をやつすとは、なんとも情けない。
しかし、まぁ、良い機会だ。さっさとここを去れ。目障りだ」
そう言うと、お父様は部屋に入り、サッと分厚いカーテンを引いた。
私は、先ほどエドガーに会った時と同じように、その場に立ち尽くしていた。
まるで、足が地面に張り付いたかのように、動くことができなかった。
価値がない。そんな父の言葉が、脳裏で何度も何度もこだまする。
これも、一種の呪い、なのかもしれない。




