20 女王死す
メセトラ王国。
冬。
静かな夜だった。
王城は薄暗く、
廊下には灯火だけが揺れている。
かつて賑やかだった侍女たちも、
今は声を潜めていた。
皆、知っている。
女王ネフェルセトの命が、
もう長くないことを。
◆
女王の私室。
窓の外では、
巨大河イシュアが静かに流れていた。
昔と変わらない。
流れ続ける。
老いず、
止まらず。
ベッドの上には。
老いた女王がいた。
かつて世界を魅了した褐色の美女。
今は痩せ、
髪も白く、
呼吸も弱い。
だが。
不思議と。
とても綺麗だった。
部屋には侍女長と数人の侍女がいた。
そして。
部屋の隅。
銀髪の男が座り込んでいた。
「のだぁ……」
レイだった。
数十年前と何一つ変わらない姿。
若く、
美しく、
異質。
なのに今は。
酷い顔だった。
目は真っ赤。
髪はボサボサ。
黒マントはぐしゃぐしゃ。
完全に泣き崩れていた。
「のだぁ……
のだぁぁ……」
侍女たちは困惑していた。
何故なら。
レイは基本的に人間へ触れない。
潔癖だから。
汗。
熱。
肉体。
全部嫌がる。
なのに。
今。
レイは。
女王の手を握っていた。
両手で。
強く。
「うぇえええええええええん!!!!」
王城が揺れるレベルの大号泣。
「のだぁあああああああああ!!!!
羨ましいのだぁあああああ!!!!」
侍女たちが泣きながら耳を塞ぐ。
女王は弱々しく目を開けた。
「……うるさいぞ」
「だってぇぇぇぇぇぇ!!!!」
レイはボロボロ泣いていた。
「お主だけぇ!!
清潔な冥界に帰れるのずるいのだぁぁぁ!!!」
侍女たちが静止した。
「……は?」
レイは女王の手に顔を押し付けながら泣き叫ぶ。
「吾輩も帰りたいのだぁぁぁ!!!
もう嫌なのだぁぁぁ!!!
人間界臭いのだぁぁぁ!!!
埃あるのだぁぁぁ!!
汗かくのだぁぁぁ!!」
最後まで最低だった。
だが。
声は本気だった。
「冥界帰りたいのだぁ……
魂河行きたいのだぁ……
静かな場所で寝たいのだぁ……」
女王は小さく笑った。
「……お前は、本当に変わらぬな」
「変わらないのだぁぁぁ!!」
レイは鼻水まで垂らしていた。
「嫌なのだぁ!!
吾輩だけ永遠にここなのだぁ!!
お主ずるいのだぁぁぁ!!」
侍女長が泣きながら思った。
(普通、死にゆく相手に言う言葉じゃない……)
だが。
女王は怒らなかった。
むしろ。
少し安心していた。
最後まで。
この男はこの男だった。
綺麗事を言わない。
永遠の愛も、
美辞麗句もない。
ただ。
本気で。
『冥界に帰りたい』
と泣いている。
レイはグズグズ泣きながら女王を見る。
「のだぁ……
お主、死ぬのだぁ……」
「……そうだな」
「羨ましいのだぁ……」
「そんなことを言う者、初めて見たぞ」
「だってぇぇぇ……
吾輩、あと何千年ここ掃除するかわからないのだぁ……」
女王は少しだけ笑った。
「……お前なら」
「のだぁ?」
「永遠に掃除していそうだ」
「嫌なのだぁ!!」
レイは即答した。
「吾輩だってサボりたいのだぁ!!」
「だが放置できぬのだろう?」
「…………」
レイは黙った。
女王は弱々しく目を細める。
「優しいな、お前は」
「のだっ!?」
レイが飛び上がった。
「違うのだぁ!!!
汚いの嫌なだけなのだぁ!!」
「そういうことにしておいてやる」
女王は静かに笑う。
昔より、
ずっと柔らかい笑顔だった。
◆
しばらく沈黙。
窓の外では河が流れている。
レイは女王の手を握ったままだった。
不思議だった。
昔なら。
人間の死の間際など、
絶対触りたがらなかった。
だが今は。
離したくなかった。
「のだぁ……」
レイはボソッと呟く。
「お主、ちゃんと歯磨いたのだぁ?」
侍女たちが泣きながら吹き出した。
女王も笑った。
「……磨いた」
「本当なのだぁ?」
「最後まで疑うのか」
「重要なのだぁ……」
レイは泣きながら言った。
「冥界行く前にぃ……
綺麗な方がいいのだぁ……」
女王は静かに目を閉じる。
「……そうか」
レイの手は冷たかった。
死神だから。
昔はそれが異様だった。
だが今は。
妙に心地良かった。
「レイ」
「のだぁ……?」
「余は」
女王の声は掠れていた。
「……お前が来てからの国が、好きだった」
レイが止まる。
「皆、長く生きるようになった」
「子供も死ななくなった」
「街も綺麗になった」
「のだぁ……」
「だから」
女王は微笑んだ。
「悪くない治世だった」
レイの顔が歪んだ。
「うぇぇぇぇぇぇん!!」
さらに泣いた。
「嫌なのだぁ!!
置いてくなのだぁぁぁ!!」
「お前は死神だろう」
「だから嫌なのだぁぁぁ!!!
見送る側ばっかなのだぁぁぁ!!」
それは。
レイが初めて漏らした本音だった。
女王は静かに目を開ける。
そして。
最後に。
そっと。
レイの銀髪を撫でた。
「……お前も、いつか帰れるといいな」
レイが息を呑む。
次の瞬間。
女王ネフェルセトの呼吸が。
静かに止まった。
◆
部屋は静まり返る。
侍女たちの泣き声だけが響く。
そして。
「…………」
レイは動かなかった。
冷たくなった手を握ったまま。
じっと。
座っていた。
やがて。
「のだぁ……」
ポツリと呟く。
「……綺麗なのだぁ」
それは。
死神レイが生涯で初めて。
人間の死に向かって言った、
本当の賛辞だった。




