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夕暮れ。
メセトラ王国を貫く大河・イシュア。
太陽神ラーシェムの涙から生まれたと伝えられる神聖な河である。
赤く染まる水面。
ゆっくり進む帆船。
岸辺の葦。
昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
その岸辺に。
「のだぁ……」
銀髪の男が座っていた。
レイである。
いつものような絶叫も、
掃除発狂も、
「臭いのだぁ!!」もない。
妙に静かだった。
黒マントをだらんと垂らし、河をぼんやり見つめている。
「…………」
疲れていた。
心底疲れていた。
理由は単純。
最近スラム街を掃除し始めたからである。
「のだぁ……」
レイは死んだ目で呟いた。
「もう嫌なのだぁ……」
スラム街。
そこはレイにとって地獄だった。
汗。
泥。
病気。
腐臭。
汚水。
害虫。
しかも人間が密集している。
レイの潔癖精神を破壊するには十分だった。
最初に入った瞬間。
「のだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
絶叫。
そして失神。
二回目。
気合いを入れて再突入。
「うむ!今日は頑張るのだぁ!!」
三十秒後。
「のだぁ……」
失神。
三回目。
口元に布を巻いて突撃。
「これなら勝てるのだぁ!!」
子供が鼻水垂らしていた。
「のだぁぁぁぁぁ!!!!」
失神。
現在。
もはや王都では、
『魔王はスラム街へ行くと倒れる』
という意味不明な認識が広まっていた。
「のだぁ……」
レイは河を見つめた。
イシュア河は静かだった。
ゆっくり流れ。
汚れを運び。
また新しい水が来る。
それがレイには妙に好きだった。
「河って最高なのだぁ……」
誰に言うでもなく呟く。
「冥界でも河は綺麗だったのだぁ……」
冥界にも河はある。
魂の流れる川。
死者の記憶が溶ける静かな場所。
レイは昔、仕事をサボってよくそこで寝ていた。
「いくら汚れても流れていくのだぁ……」
河面を見ながら呟く。
「最高なのだぁ……
一家に一河なのだぁ……」
意味不明だった。
だが妙に真剣だった。
その時。
「……また倒れていたそうだな」
静かな声。
女王ネフェルセトがやってきた。
今日は護衛が少ない。
最近はレイの前に大人数を連れてこないのが暗黙の了解になっていた。
レイが「人口密度高いのだぁ!!」とキレるからである。
レイはチラッと女王を見た。
「のだぁ」
「何だその返事は」
「ちゃんと歯磨いたのだぁ?」
「磨いた」
「うむ」
最近これが挨拶だった。
女王はレイの隣に腰を下ろした。
しばらく静寂。
河だけが流れている。
「……珍しいな」
「のだ?」
「今日は暴れていない」
レイは河を見ながら答えた。
「疲れたのだぁ……」
「スラム街か」
「地獄なのだぁ……」
本気で魂が抜けた声だった。
「人間、多すぎなのだぁ……
臭いのだぁ……
狭いのだぁ……
湿ってるのだぁ……」
「……」
「でもぉ……
放置すると病気増えるのだぁ……」
女王は少し驚いた顔をした。
レイは続ける。
「病気で死ぬとぉ……
いっぱい腐るのだぁ……
もっと汚くなるのだぁ……」
「だから掃除しているのか」
「のだぁ……」
嫌そうだった。
本当に嫌そうだった。
「吾輩、本当はやりたくないのだぁ……
でもぉ……
汚いの放置する方がもっと嫌なのだぁ……」
女王は静かに河を見た。
夕日が水面を赤く染めている。
「……お前は不思議な男だ」
「よく言われるのだぁ」
「人を嫌うくせに、人が死なぬよう動く」
「死体増えると汚いのだぁ」
「台無しだな」
レイはムスッとした。
「事実なのだぁ」
風が吹いた。
河の匂いが流れる。
湿った土。
水草。
夕暮れ。
レイは少しだけ目を細めた。
「河はいいのだぁ……」
「そんなに好きか」
「好きなのだぁ」
珍しく即答だった。
「流れてるのだぁ……
止まらないのだぁ……
綺麗なのだぁ……」
レイは少し考え込む。
「……人間もぉ」
「?」
「河みたいならよかったのだぁ」
女王がレイを見る。
レイは河面を眺めたままだった。
「溜め込むから腐るのだぁ……
汗もぉ……
ゴミもぉ……
怒りもぉ……
変な欲もぉ……」
「……」
「流せばいいのだぁ」
静かな声だった。
女王は少しだけ目を伏せた。
王という存在は、溜め込む。
怒り。
責任。
不安。
恐怖。
流すことなど出来ない。
レイは突然立ち上がった。
「うむ!」
「どうした」
「閃いたのだぁ!!」
嫌な予感。
女王が眉をひそめる。
「まさか……」
レイはビシィッ!!と河を指差した。
「全国水洗化計画なのだぁああああ!!!」
「やっぱりだァーーーーーーッ!!」
女王の絶叫が河辺に響いた。
レイはキラキラした目で叫ぶ。
「下水を作るのだぁ!!
流すのだぁ!!
汚れを溜めるななのだぁ!!」
「予算が死ぬ!!!」
「知らんのだぁ!!!
臭い方が嫌なのだぁ!!」
そしてレイは黒マントを翻した。
「待ってろなのだぁ!!
吾輩がこの国をぉ!!
ピカピカの水文明にしてやるのだぁああああ!!!」
全力疾走で去っていく。
女王は頭を抱えた。
だが。
遠くで流れる河を見ながら、少しだけ笑ってしまった。
「……本当に、意味の分からぬ男だ」




