真夜中の決別、檻を破る天才令嬢
ある日、定期的な講義のため、ヴァルツァー侯爵家からあの忌まわしい家庭教師が訪れていた。私は当然のようにサボりを決め込み、自室に籠っていた。
今、階下の教室がどんな惨状にあるのかは分からない。私という「供給源」を失った以上、エリシアも少しは腹を括って真面目に取り組んでいるのだろうか。……まあ、どうでもいい。いつか侯爵家に嫁げば誤魔化しなど利かなくなるのはあちらだ。私が舞台を降りた今、その破滅の重責を担うのはエリシアしかいないはずだった。
私は粗末なソファに深く腰掛け、隠し持っていた医学書に視線を落としていた。
あの教師に教わらずとも、この屋敷の書庫にはかつて侯爵家から寄贈された専門書が山のようにある。その一部を密かに自室へ持ち込み、私は一人で知識を深めていた。
(これはただの暇つぶし。あの二人の糧になるためじゃない。……そう、ただの趣味よ)
自分にそう言い聞かせ、私は暇を弄ぶように知識を貪り続けた。
最新の病理学、最先端の薬学――学ぶべきことは無限にあったが、私は知識を蓄えるだけで、実際に患者を診たことはない。当然、この部屋には医療器具もなければ、包帯やガーゼの一枚すらない。退屈しのぎにドレスのリボンを自分の腕に巻き付け、処置のシミュレーションをするのにも限界があった。
そうして、呪うように本をめくっていた時のことだった。
古い医学書のページの隙間から、一枚の書類が床へと滑り落ちた。
「……何だろう」
拾い上げて目を凝らす。それは、侯爵様が書庫のどこかから紛れ込ませたまま放置していたらしい、ヴァルツァー侯爵領の地方医師から届いた人手不足を訴える嘆願書(求人票)だった。
そこには、侯爵領の外れにある診療所が、過酷な労働環境ゆえに深刻な医療従事者不足に陥っている生々しい現状が綴られていた。
それを見た瞬間、冷え切っていた私の脳裏に、凄まじい衝撃が走った。
(ここを抜け出して、ヴァルツァー領へ行けば……生きた医療を、実践で学べる。私は私の夢をあきらめる必要はないんだわ……!)
点と点がつながり、思考が完全に支配されていく。
だが、すぐに無数の不安が頭をもたげた。
(待って、この嘆願書はまだ有効なの? もし、私の知識が実戦で役に立たず、追い返されたら……? 私は市井で生き残ることができるのだろうか……)
いろんな恐怖が胸を締め付け、足がすくみそうになる。
だが、現状この場に残っていても、すり潰されて死を待つだけの地獄であることに変わりはない。
「怯えてどうするの、アリア。いざとなれば掃除でも、何でもできることをしたらいいのよ」
私はベッドの下から、かつて貯めていた僅かなお小遣いを取り出した。隣の領地であるヴァルツァー侯爵家へ向かい、しばらく潜伏するだけの資金なら十分に残されている。
(これは神様がくれた最初で最後のチャンス。今動かないと、私は一生あいつらの家畜になってしまう)
――その日の深夜。時計の針が午前二時を回った頃。
屋敷中が寝静まり、静寂が支配する中、私は最低限の荷物をまとめたカバンを片手に、静かに部屋の窓を開けた。
「……っ」
冷たい夜風が頬を打つ。生まれて初めて、たった一人で行う犯罪的な密出国。心臓が痛いほど激しく脈打ち、恐怖で指先がガタガタと震えた。
けれど、私は奥歯を噛み締め、ベランダの手すりを伝って、夜の闇へと飛び降りた。
庭の生垣をくぐり抜け、振り返ることなく、泥棒たちの巣窟であるグレインフィール伯爵邸を飛び出した。
一歩、また一歩と進むたび、孤独の恐怖が圧し掛かってくる。
「見つかったらどうしよう」「本当に一人で生きていけるの?」
幼い私の心が悲鳴を上げる。だけど、絶対に後回しにはしない。行くも地獄、残るも地獄。ならば、私は私の頭脳で、新しい可能性を切り開いて見せる!
(私は無力なアリアじゃない。一人でも生きていけるわ……!)
自分を鼓舞するように強気な笑みを浮かべ、私は夜道をがむしゃらに走り続けた。
夜が明ける頃には、領境の宿場町へと辿り着き、手に入れた資金で真っ先にヴァルツァー領行きの乗合馬車を雇った。
ガタゴトと揺れる馬車の窓から、昇りゆく朝日を見つめる。
私はもう、あの檻の住人ではない。
行き先は、ヴァルツァー領の外れにある、名もなき診療所。
私のすべてを奪った先生と家族に、別れを告げ――私は今、本物の医療の戦場へと足を踏み入れた。




