凍りついた情熱、筆を折る才女
それからの日々は、地獄ですら生ぬるいものだった。
私が決死の想いで築き上げた薬草事業は、完全に軌道に乗った。そこから生まれる莫大な富と名声――そのすべてが、当然のように「グレインフィール家の才女・エリシア」の名のもとに集められていく。
私はなんとか自分の名誉を取り戻そうと、部屋にこもり、寝る間も惜しんで再び新しい論文の執筆に心血を注いだ。だが、その努力すら、泥棒たちによって容易く奪われ続けることになる。
「返して……! それは、私の……私が書いたものよ……!」
掠れる声で縋った瞬間、エリシアは嘲笑うように小さく口元を歪めた。
「私のものですって? 今さらお父様たちの寵愛を奪おうだなんて、見苦しいお姉様。そんな浅ましいこと、このグレインフィール家の才女が許すとでもお思い?」
エリシアの命令により、買収された使用人たちが無言で私を取り押さえる。その隙に、エリシアと家庭教師のグレイス・マクシミルが、私の部屋の中を執拗に物色していった。
「見つけましたわ、先生。お約束の、新しい論文の草稿です」
「おお、素晴らしい……! エリシア嬢、なんと感謝すれば……。この論文を『私のモノ』として発表すれば、ヴァルツァー侯爵様からさらなる評価を得ることができます。……アリア嬢には、これからもせいぜい無駄な努力をしていただきたいものですな」
二人は躊躇いもなく、私のすべてを奪いに来た。
この時、私の中で全ての点と線が繋がった。両親の寵愛を一身に浴びたいエリシアと、侯爵家からの評価と出世が欲しいグレイス。莫大な薬草の利益を握った二人は、潤沢な資金を使って屋敷の使用人を一人残らず買収し、私を孤立無援の檻に閉じ込めたのだ。
「アリアに関わる研究資料を、すべて持ってきなさい」
机の中も、書棚も、隠していた床の隙間さえも暴かれた。
課題、論文の草稿、研究ノート。
私の思考も、努力も、時間も――何もかも。
抵抗しようとした私の細い手首を、使用人が無情な力で押さえつける。
誰一人として、私の味方はいなかった。
「やめて……返して……っ!」
「まだ見苦しく吠えるのね、お姉様」
エリシアは私のノートを一冊手に取り、ぱらりとページをめくると、それを床へと無造作に投げ捨て、自らの靴で踏みにじった。
「こういう高尚な知識はね、持つべき価値のある人間が持ってこそ輝くのよ。安心なさいな、その論文は先生がしかと世間に公表してくださいますから」
踏みつけられた紙が、かさりと乾いた悲鳴を上げた。
その瞬間、私は理解してしまった。
これは一時的に奪われたのではない。彼女たちは最初から、私の頭脳を、私の人生を、自分たちの所有物として見ていたのだと。
――その日を境に、私はあんなに没頭していた医学の講義へ、一切姿を見せなくなった。
両親はあの事件以来、私への嫌悪と軽蔑を隠そうともしない。そして私がどれだけ新しい成果を生み出しても、それは自動的にエリシアの功績にすり替えられる。
そんな歪んだ世界で、誰が狂わずに努力を続けられるというのだろう。私の心は、完全に凍りついていた。
焦り始めたのは、泥棒たちの方だった。
妹とグレイスの貧弱な知識では、世間から賞賛される「グレインフィール家の才女」の看板を維持するための課題も、新しい高度な論文も、何一つ書き上げることなどできやしない。私の頭脳を再び搾取するため、彼女は両親を唆し、私に牙を向かせた。
「お父様、お母様、聞いて。アリアったら、あれ以来ずっと講義を出席しないのですよ。このままでは、次のヴァルツァー侯爵様への進捗報告が滞ってしまいますわ。何とか言ってやってくださいな」
「アリア! 不貞腐れるのも、いい加減に講義へ出ろ! 親に恥をかかせるつもりか!?」
「今まであれほど苦もなく勉強をやっていたでしょう!? いきなり幼児退行のような我が儘をして、どういうつもりなの!?」
朝食の席。四方を敵に囲まれ、冷徹な非難の嵐を浴びせられても、私の心は微塵も揺らがなかった。私はカトラリーを静かに置き、冷め切った瞳で家族を見据えた。
「――エリシアという、完璧な『才女』がいらっしゃるのですから、私などもう不要でしょう。どうぞ、私のことはいないものとして、捨て置いてください」
「アリア……ッ!!」
激昂した父が、私の目の前で激しく皿をひっくり返した。ガシャーンと派手な音が響き、料理が床へ散らばる。私は一口も食事を口にできないまま、椅子に深く腰掛け、ただ冷ややかに父を見つめていた。
「恩知らずのクズめ! お前に食べさせる物など我が家にはない! 部屋で一生、謹慎していろ!」
「……承知いたしました」
私はむしろ、喜んでその罰を受け入れた。
私が完全に筆を折ったことで、グレインフィール家の医学事業はピタリと進展を止めた。
この屋敷で真に医学の知識を有しているのは、元より私だけだったのだ。エリシアが自ら勉強を重ねない限り、これ以上の新しい実績など生まれるはずがなかった。
私は、医学以外のマナーやダンス、貴族としての基礎教養の場には、あえて完璧な所作で姿を現した。私は決して、無能な怠け者になったわけではない――その無言のメッセージが、余計に両親を苛立たせた。
あの忌まわしい教師が来るたび、私は自室に引きこもった。
どんなに怒鳴られ、殴られ、食事を抜かれても、私は頑として医学の机には向かわなかった。私の肉体は傷ついても、私のプライドだけは、絶対にあの二人の奴隷になることを拒絶していた。
やがて、その凄まじいまでの拒絶の前に、両親はかつて幼いエリシアを諦めた時のように、私を力で懐柔することを諦めていった。
そして、ついにエリシアも。
「……まぁ、いいわ。これまでに奪った実績だけでも、ヴァルツァー侯爵様には十分すぎるほど認めてもらえたはずだしね」
「エ、エリシア嬢! 約束が違うではないですか、アリア嬢を動かさないと私の評価にも影響がでるのですよ!」
「アリアが頑なに書かなくなってしまったのだもの、仕方ないじゃない。先生も往生際が悪いわね」
私の部屋の前に立ち、中身のすっからかんな言葉を吐き捨てて、エリシアは足早に去っていった。
ようやく、これ以上自分の功績を妹に強奪されるのだけは阻止できたのだ。
けれど、私の心に残ったのは、焼け野原のような虚無感だけだった。
なぜ、私がこんな目に遭わなければならないのか。なぜ、私の愛した医学を、私の努力を、家族の温もりを、すべて奪われなければならなかったのか。
暗い部屋の中、食事も与えられず、私は己の身体に増えていく痣を抱きしめながら、エリシアを、グレイス先生を、そして両親を、心の底から呪い、恨み続けていた。
(二度と、医学の知識なんかで誰も救わない。誰も、愛さない――)
その誓いだけが、ボロボロになった私の心をかろうじて支えていた。




