仕組まれた欺瞞、泥棒たちの夜会
変化は、あまりにも突如として、そして最悪の形で訪れた。
いつものように課題を提出した教室に、妙に張り詰めた、奇妙な空気が流れ込んだ。
いつもなら、提出されたエリシアの白紙に近い課題を見て、呆れ果てた溜め息を漏らすはずの家庭教師――グレイス・マクシミルは、なぜか額に異常なほどの汗を浮かべ、落ち着きなく視線を彷徨わせていた。
「エリシア嬢……これでは、課題の意味を成しておりませんが……」
グレイスの声は微かに震えていた。だが、この日のエリシアは反省する素振りすら見せない。それどころか、仕立ての良いドレスの裾を優雅に整え、完璧な淑女の微笑みを浮かべて小首を傾げた。
「あら、先生。わたくし、体調が優れませんの。これほど難解な基礎を一方的に押し付けられては、学問への意欲が削がれてしまいますわ。……ねえ、先生もそうお思いでしょう?」
「エリシア、先生に対してその態度は失礼よ」
見かねた私が注意を促すと、エリシアは冷ややかな一瞥を私にくれた。
グレイスは一瞬、怯えたように10歳のエリシアの顔色を窺うと、引きつった笑みを浮かべて私の方を向いた。ただ、その目は決して私と合おうとはしなかった。
「そ、そうですか。では……アリア嬢の課題を見せていただきましょう」
差し出した私の紙に目を通したグレイスの目が、不自然に見開かれる。
「これは……相変わらず、完璧な出来栄えです。要点も的確で……ですが、アリア嬢。あなたは……姉として、妹を支え、引き立ててあげる立場でしょう」
「……え?」
「それなのに、己の才を鼻にかけて妹を追い詰め、学習意欲を削ぐなど……。今後は少し、目立つ真似は控えなさい。それから、妹への過度な干渉も禁止します」
「っ……!」
胸の奥で、何かが音を立てて粉々に砕け散った。
エリシアは怠けているだけだ。私は努力をして、成果を出した。それなのに、なぜ私が悪者になり、責められなければならないのか。
グレイス先生の歪んだ嫉妬と、エリシアの黒い思惑が、すでに裏で結託していることなど、この時の私は知る由もなかった。
そして数日後。
普段は滅多に声を荒らげることのない父の怒号が、重々しい執務室の空気を震わせた。
「アリア! 貴様、一体なぜこんな卑劣な真似をしたッ!!」
心臓が跳ね上がるほどの怒声だった。
デスクを叩いて立ち上がった父・ロベルトの手には、一枚の論文が握られている。それは私が幾晩も寝ずに書き上げた、新しい薬草の効能に関する論文だった。
「これは、エリシアが努力して書き上げた論文だそうだな!」
「え? お父様、何を仰っているのですか……? それは、私が先週から時間をかけて書き進めていたもので――」
「お父様、お聞きになって? アリアは平然と嘘を吐くのですわ」
言いかけた私の言葉を、エリシアの凛とした、しかし酷く冷徹な声が遮った。
エリシアは信じられないほど落ち着いた仕草で一歩前へ出ると、悲劇の令嬢そのものの痛ましい表情を作り、大きな瞳にみるみるうちに美しい涙を溜めてみせた。
「わたくし、お父様とお母様に少しでも喜んでいただきたくて、夜も眠らずにこの論文を書き上げましたの。それを……アリアは姉としての優位を利用し、わたくしの引き出しから強引に盗み出しましたのよ」
「な……っ!?」
あまりにも完璧な「10歳の淑女の演技」に、両親の表情が完全な嫌悪へと染まっていく。
そして彼らの隣には、あの家庭教師グレイスが、冷や汗をハンカチで拭いながら立っていた。悪事に慣れていないグレイスの顔は微かに強張っており、その言葉には明らかな戸惑いと躊躇いが混ざっていた。
「は、はい……。ロベルト伯爵。そ、その論文の筆跡や、思考の展開の癖は……間違いなく、私が日頃から熱心に指導しているエリシア嬢のものです。……その、アリア嬢が、夜中に妹君の部屋へ忍び込む姿も、目撃されております。……ええ、間違いありません、エリシア嬢の功績です」
「ヴァルツァー侯爵家から派遣された高潔な先生が、お前の論文ではないと明確に証明しているのだぞ! これ以上、どう言い訳をするつもりだ!」
「それは私が書き上げたものです。私はエリシアから盗んでなどいません!」
私は叫んだ。けれど、それは無意味だった。
命の恩人であるヴァルツァー侯爵家を「神」と崇める父にとって、その家から派遣されたグレイスの言葉は、絶対的な真実に他ならなかったのだ。
そして、かつて私に惜しみない期待と愛情を注いでいた父は、手のひらを返したように、その狂信的な熱量を全て「憎悪」に変えて私へとぶつけてきた。
「この期に及んでまだそんな醜い嘘を……ッ!! この卑怯者がッッッ」
低く、地を這うような冷酷な声。
次の瞬間、激しい衝撃とともに、私の視界が大きく火花を散らした。
――生まれて初めて、父に激しく頬を叩かれた。
肌が焼けるように熱い。床に転がった私を、父は見下し、虫ケラを見るような目で吐き捨てた。
「命の恩人である侯爵家へ捧げるための、妹の努力を横取りするなど……。見損なったぞ、人間のクズめが。我がグレインフィール家の恥晒しだ!」
「……っ」
私は唇を血が出るほど強く噛み締め、床を見つめた。
これまでの努力も、医学への純粋なときめきも、家族の笑顔が見たかった優しい願いも、すべてが漆黒の闇に塗り潰されていく。
何を言っても、彼らはグレイスの言葉しか信じない。私はもう、この家で「存在してはならない影」にされてしまったのだ。
私は突き動かされるように立ち上がると、逃げるように父の執務室を飛び出した。
「アリア! 待ちちなさいッ! まだ話は終わって――」
背後から響く父の怒声をすり抜ける間際。
私は見てしまった。
涙を流して俯いていたはずのエリシアが、前髪の隙間から私をちらりと見つめ、ほんの一瞬だけ――
「――勝ったわ」
そう確信したように、その口元を完璧に歪な、三日月型に歪めて美しく微笑んだのを。




