番外編:惚れ直さざるを得ない背中
東の領地へと向かう馬車の中は、一言で言って「過保護の過密地帯」だった。
「アリア、寒くはありませんか? 特製の毛布をもう一枚掛けましょう。あ父から貰った東の地のお菓子は口に合いますか? 喉が渇いたなら僕が今すぐお茶を淹れます。……あ、やはり現地に着くのが不安になってきました。今からでも侯爵家へ引き返しませんか?」
「レ、レオン様、落ち着いてください……! 私は元気ですし、東の地まではあと数時間で着いてしまいます!」
移動中、私の一挙手一投足に過剰に反応し、文字通り至れり尽くせり(物理的に距離がゼロ)で世話を焼いてくるレオン様。新婚とはいえ、私への執着と過保護っぷりは相変わらずで、私は嬉しい反面、「この人は医療の場でもこんなにソワソワしているのだろうか……」と、ほんの少しだけ心配になっていた。
だが──その心配は、東の地の中心病院に足を踏み入れた瞬間、完全に消し飛ぶことになる。
「ヴァルツァー小侯爵閣下! お待ちしておりました!」
現地の老医師たちが、藁にもすがるような悲痛な面持ちで私たちを出迎えた。
隔離病棟には、新型の病原菌によって高熱と呼吸困難に苦しむ多くの患者たちが横たわっており、現場は混沌を極めていた。有効な治療法が見つからず、空気は絶望に淀んでいる。
「──状況は把握した。これより本件の指揮は私が執る。これ以上、一人の脱落者も出すな」
その瞬間だった。
馬車の中での甘ったるい雰囲気を一瞬で霧散させ、レオン様の琥珀色の瞳に、周囲を圧倒するほどの冷徹で鋭い光が宿った。
彼が白衣を身に纏い、私が纏めたデータ書類を片手に病棟へ足を踏み入れたとき、現場の空気がピリリと張り詰める。その背中は、私の知っている「愛に狂う旦那様」ではなく、国中から畏敬の念を抱かれる『国家最高峰の天才医師』そのものだった。
「防護服の基準を三段階上げろ。アリアの推測通り、この病原菌は接触だけでなく飛沫による感染力が極めて高い。隔離壁を即座に二重にしろ」
「は、はいっ!」
「それから、患者の熱型のデータをすべて持ってこい。アリアが予測した成分の危険度比率と照らし合わせる。……おい、そこの助手。配分を間違えるな、コンマ一ミリグラムの狂いが患者の命を左右する。私の指示通りに動け」
流れるような、それでいて一切の迷いがない的確な指示。
現地のベテラン医師たちが圧倒され、言葉も出ずに彼の言葉に従っていく。レオン様は、私が寝る間を惜しんで作成したあの緻密なデータを120%どころか200%引き出し、頭の中で瞬時に完璧な治療の方程式を組み立てていた。
(凄い……。なんて、圧倒的なお方なの……)
私は指示された通り、彼の助手として必死に薬草の配合を行いながら、その横顔から目を離せなくなっていた。
普段の彼は、私の「小切手」一枚で大パニックを起こし、私におねだりされただけで気絶しかけるような人だ。なのに、今の彼は、迫り来る病魔の脅威を前にしても眉一つ動かさない。冷徹で、迅速で、誰よりも命に対して真摯で──そして、恐ろしいほどに格好良い。
「アリア、そちらの抽出液の準備は?」
「あ、はい! こちら、予測比率通りに精製したものです!」
「完璧だ。やはり君の腕は世界一だね。……これより、この特効薬を重症者に投与する。全行程、私が直接執刀・管理する。全員、私の手元を凝視して一秒たりとも遅れるな!」
緊迫した空気の中、レオン様の細く美しい指先が、神業のような正確さで治療を進めていく。
彼の出す静かで力強い指示の声が、病棟を包んでいた「死の恐怖」を、確実に「希望」へと塗り替えていくのが分かった。私たちが連携して臨んだその日、あれほど現地の医師たちを絶望させていた新型病原菌の感染拡大は、信じられないスピードで食い止められ、患者たちの容態は劇的に安定へと向かったのだ。
夕刻。一連の緊急処置を終え、医師たちや看護師たちから「奇跡だ……!」「さすがヴァルツァー家の神童……!」と嵐のような感謝と賛辞を浴びる中、レオン様はただ一つ小さく息を吐き、白衣の襟を正した。
その凛とした立ち姿、民を救う若き英雄としての背中を見つめながら、私の胸はこれまでにないほど激しく高鳴っていた。
(ああ、私は……勘違いしていた。この方は、私への愛のせいで時々おかしなことになっているけれど……本当は、誰よりも尊敬できる、私の命の恩人であり、世界で一番偉大な私の旦那様なのだわ……)
実家にいた頃は、自分の知識を踏み躙られ、医療に関わることすら罪だと思わされていた。そんな私を救い出し、こうして最高の舞台で、対等なパートナーとして共に人を救う喜びを与えてくれた彼のことが──
恥ずかしいけれど、出会ったあの雨の夜よりも、新婚初夜のあの情熱的な夜よりも、今この瞬間が、一番心の底から「大好きだと、惚れ直してしまった」のだった。
「……アリア? どうしましたか、そんなに私の顔を見つめて。どこか体調でも悪いのですか?」
処置室の片隅で二人きりになった瞬間、レオン様はいつもの「心配性の過保護な旦那様」の顔に戻って、私の顔を覗き込んできた。
私の胸の内の熱い大爆発(惚れ直し)など露知らず、彼はまたソワソワと私の手を握りしめてくる。
「ううん、何でもありません。ただ……レオン様が、あんまり格好良かったので」
「──え?」
私がふにゃりと心からの笑顔を向けると、レオン様は本日二度目のフリーズ(硬直)を起こし、今度は嬉しさと破壊力のあまり、処置室の壁に頭をぶつけて悶絶し始めるのだった。




