番外編:ハネムーンの罠
厳かなヴァルツァー侯爵の書斎で、その急な依頼を告げられたとき、私は一瞬だけ息を呑み、言葉を失ってしまった。
「私は今、どうしても中央医療学会の件で手が離せなくてね。東の領地で発生している、この新型病原菌の現地調査と対策には……レオンを中心に、アリアちゃんと二人で向かって解決してほしいんだ」
重厚な机の上には、私が昨日まで寝る間を惜しんでまとめ上げた、詳細なデータ書類が置かれている。それを、私の隣に立つレオン様がスッと手で拾い上げ、真剣な眼差しで目を通し始めた。
「お義父様……。わ、私はもちろん、お役に立てるなら喜んで向かいますが……」
私の戸惑う声に、レオン様の探るような冷徹で美しい視線が、一瞬だけこちらを向く。そして何事もなかったかのように、また手元の書類へと視線を戻した。
私がドキドキしながらその光景を見つめていると、レオン様が小さく感嘆の溜息を漏らした。
「アリア、本当に君の書類精査能力は優秀ですね。 過去の類似症例との対比も、成分の危険度予測も、驚くほど正確で分かりやすくまとめられているよ」
「あ、ありがとうございます。その……レオン、様……っ」
未だに慣れない「レオン様」という呼び方を口にしてしまい、それだけで心臓が激しく跳ね上がる。
この案件は、私がアルベルト様から個人的に相談されて以来、彼からの甘い夜の追及もどうにか躱しながら、熱を注いでまとめ上げたものだ。誰よりも現状の危険性を把握しているのは自分だし、医療の徒としてこれ以上の感染拡大を防ぐため、詳細な現地データをこの目で確かめたいと強く願っていた。だが……向かう場所が、あまりにも問題だった。
案の定、レオン様の表情から温度が消え、冷酷な拒絶の声音が書斎に響き渡る。
「──お父様。僕はこの案件に、アリアを同行させることだけは断固反対です。アリアを東の地に連れて行くなんて、危険すぎます! あそこは……かつて妻が僕から逃げようとした際、最初の逃亡先として候補に挙げていた土地ではありませんか! 万が一、現地でドサクサに紛れてまた僕の包囲網を抜けて夜逃げされたら、僕は一体どうすればいいのですか!?」
「なっ……! レ、レオン様、もう絶対に逃げない(全面降伏した)と、あの夜に何度も何度も、それこそ部屋まで同室にしたではありませんか……っ!」
恥ずかしい「初夜の誓い」を思い出して真っ赤になる私の腰を引き寄せ、レオン様の過保護センサーは狂ったように警報を鳴らし続けている。
「それにアリアの医療の才能があれば、東の地のどんな大病院からも引く手あまたでしょう。あちらの独身の若い医師どもが、私の最高に美しい新妻に目を眩ませて引き抜きを画策しないとも限りません! アリアを連れて行かずとも、僕一人、単身で赴いて三日で根絶してきます!」
「何? 娘に再び逃げられる、あるいは別の男に略奪される可能性が?……それは我がヴァルツァー家として認めることができんなぁ」
「お、お義父様!? 一緒にレオン様を説得してくださると言ったのに、なぜ彼の過保護に便乗しているのですか!?」
頭を抱える私。そう、レオン様は私を侯爵家の敷地から一歩出すのすら渋るほど、重すぎる過保護に過保護を重ねているのだ。ましてや遠い東の地へ行くなど、どれだけ正論を説いても首を縦に振るはずがなかった。
だが、そんな私の施術者としての「どうしても現地に行きたい」という熱い目を見透かしたように、アルベルト侯爵様が不敵に笑い、実の息子に向けて極上の『餌』を投げ入れた。
「ゴホンッ、レオン。この案件は、アリアちゃんが文字通り心血を注いで担当してきたものだ。他領とはいえ民を救うため、本物の才女の力が必要なのだよ。……それに、お前たち、結婚式を挙げたばかりで『ハネムーン(新婚旅行)』がまだだろう? この機会に、新妻と二人きりで遠出したいとは思わないのかね?」
「──なっ、それは……っ!!」
レオン様の美しい瞳が、弾かれたように大きく見開かれた。
「ハネムーン」というあまりにも甘美なワードに、彼の鉄壁の拒絶が一気に揺らぐ。
「この現地調査を担当するなら、向こうの伯爵の全面協力のもと、一ヶ月は『二人だけでの滞在』を許可しよう。逆に言えば、アリアちゃんを置いてお前が単身で行くならば、お前は結婚早々、この愛らしい新妻に一ヶ月も寂しい思いをさせ、毎夜一人で冷たいベッドに寝かせることになるが……それでもいいのか?」
「お父様……。いつの間に、そんな悪魔のような卑怯な説得方法を覚えられたのですか……!?」
「すべては、ヴァルツァーの将来のため、そして可愛い娘のためだよ。閉じ込めてばかりいては、それこそ逃亡を招いてしまうだろう?」
レオン様の視線が激しく泳ぐ。彼の喉がゴクリと鳴り、こちらに向けて猛烈に「葛藤の嵐」が吹き荒れているのが分かった。
(ハネムーン……アリアと一ヶ月、誰の邪魔も入らない異郷の地で、二人きり……朝から晩まで……)と、脳内で都合の良い妄想を爆走させているに違いない。汗の引き方、手の震え方、すべてがこちらの有利に傾いている。
──ここだ。もう一押しだと、私の「医療の徒」としての直感が告げていた。
彼を完全に陥落させるためには、彼の唯一にして最大の弱点──すなわち『私自身』を使うしかない!
私は意を決すると、これまで一度もしたことのない大胆な行動に出た。
一歩前に踏み出し、彼の逞しい右腕を両手で、ギュッと、自ら抱きしめたのだ。そして、あの実習の夜にエリシアのフリをして掴んだ時の記憶を総動員し、顔を極限まで赤らめながら、おねだりの上目遣いで彼を見上げた。
「わ、私は……患者様はもちろん、大好きなレオン様を置いて、もうどこにも行きません……っ。向こうに行っても、ず、ずっと、レオン様の目の届くところに……手の届くところに、いますから……。だから、一緒に行かせて、ください……?」
「っ、ひ、ぅ……あ…………」
レオン様は、喉の奥から聞いたこともないような奇妙な掠れた声を漏らし、その場で完璧に硬直した。
さすがにあの日のように、胸を露骨に押し付けるような破廉恥な真似は恥ずかしくてできないけれど、効果は覿面──いや、覿面すぎて彼の脳の許容量は完全に崩壊していた。耳まで爆発しそうなほど真っ赤になり、鼻血が出るのを必死に耐えている。
背後では、お義父様が「やったぞ!」と言わんばかりにサムズアップして、静かにガッツポーズを決めていた。
「アリア……。君まで、いつの間に卑怯極まりない破壊特攻(説得方法)を覚えられたのですか……。これはもはや、我が家の悪影響(職業病)なのか……?」
「ふふ、私もヴァルツァーの人間ですから」
フラフラと限界を迎えたレオン様は、ついにガックリと項垂れて全面降伏を告げ、
「分かりましたよ、連れて行けばいいのでしょう、連れて行けば……!」と、幸せそうな溜息混じりに同意してくれたのだった。
こうして、過保護な策士を新妻のおねだりでノックアウトした私たちは、波乱に満ちた(そして甘すぎる)東の地への新婚旅行へと、無事に出発することになったのだった──。




