番外編:永遠の同室契約
時は現在へと戻る。あの壮絶な断罪劇とウエディングを終え、夜の帳が下りたヴァルツァー侯爵邸──僕たちの、本当の「初夜」の寝室。
「まさか、僕との子供をその身に宿しているかもしれないというのに、この期に及んでまだ夜逃げを図ろうなどと画策していたとは……本当に、大罪人ですね?」
僕は、いつになく低い、有無を言わせぬ声音でベッドの上でアリアに詰め寄っていた。
これまで僕を散々翻弄し、僕の理性を何度も決壊寸前まで追い込み、完璧な包囲網を敷いてなお逃げ出そうとした我が花嫁は、僕の腕の中に完全に収まってなお、隙あらば消えてしまいそうな怯えた表情を浮かべている。
「ま、待ってください……! だって、あ、あのノア様がレオン様の親友だと分かって、私が平民として隠れ住んでいた5年間もすべて貴方に把握されていたと知って……! しかも、私はてっきり『レオン様はエリシアを婚約者としてご友人を紹介しているんだ』と盛大に勘違いして、一人で勝手に絶望していたのですよ!? そのうえ、あの実習の夜……エリシアのフリをしてレオン様の腕にまとわりついて、挙句の果てにソファでベッドで、その、だ、抱き潰されたのまで……全部、最初から私だとバレていたなんて……っ! 恥ずかしすぎて死んでしまいます! 一旦、頭を冷やしに出直してきても──」
「申し訳ありませんが、却下(無理な相談)です」
赤面してシーツを被り、這って逃げ出そうとする彼女の細い足首を掴み、僕は容赦なく自分の体へと引き込み、再び押し倒した。
「君がパニックでいっぱいいっぱいなように、僕の理性の我慢も、もうとっくに限界を超えている。それに、そんなに今更照れなくてもいいではありませんか。僕は、君がアリア(本物)だとすべて分かった上で、あの愛らしい嘘に付き合い、君を深く抱いたのですから」
「ま、待って……お待ちください、レオン様……っ!」
僕がシャツのボタンをいくつか外すと、彼女はその光景を前に限界を迎え、両手で顔を覆って小さくなった。
「で、ですが……私は本当に、自分がここへ身代わりとして処刑されに来たのだと思い込んでいて……だから、夜逃げの馬車を……。貴方様のような高貴な方と、本当に結婚できるなんて、今日この瞬間まで思ってもみなくて……っ」
「知っていますよ。だからこそ、僕はもう君を離さない」
僕はアリアの細い手首を掴んで顔から退け、その涙の浮かんだ瞳をまっすぐに見つめた。
ようやく、偽りの仮面をすべて剥ぎ取り、アリアのままで、君のままで触れ合える機会に恵まれたのだ。この花嫁修業の3ヶ月間、君に焦がれ続けた時間は、僕にとって甘美な天国であり、同時にいつ消えてしまうか分からない地獄だった。
ようやく、この愛しい天使を捕まえて、僕の檻の中に閉じ込めたのだ。ここで君を少しでも甘やかして逃がせば、また僕の手の届かない場所へ消えてしまいそうで、狂いそうだった。
「子供は、たくさん作りましょうね。君が子育てに追われ、僕の腕から離れて行こうなどと考える暇もないくらいに……」
「っ──!?」
息を呑むアリアの唇を、僕は深い口づけで塞いだ。
戸惑い、混乱する彼女の覚悟など、今の僕には待っていられなかった。だって、一瞬でも気を抜けば、君は僕のベッドをすり抜けて、またあの夜のように消えてしまうのではないかと、気が気ではなかったからだ。
「あっ……レオン、様……っ」
「アリア……アリア……」
烈しい熱の中で、それでもアリアは必死に僕の背中に細い腕を回し、しがみついてきた。
肌に伝わる重みも、ぬくもりも、僕を求める切ない吐息も、今は何もかもが本物だ。なのに、僕の胸の奥の不安だけがどうしても消えない。それは、彼女がこれまで散々、僕の元を離れようと必死に逃げ回ってきたからだろう。
明日起きたら、この幸福な夢が覚めて、彼女はまたいなくなっているかもしれない。
僕を置き去りにして、あの部屋同士を繋ぐコネクティングドアを通り、自分の部屋へ戻ってしまうのだろうか。
(いっそ、初めから部屋自体を一つにするべきだった……。明日の朝、彼女が立ち上がれないほど、朝まで徹底的に抱き潰してしまえば、この焦燥感は消えるのだろうか──)
頭の中で暗い独占欲がグルグルと渦巻き、彼女の白い肌に何度も何度も跡を刻みつけていた、その時だった。
「……ごめんなさい、レオン様」
僕の執着を受け止めながら、アリアがふと、愛おしそうに僕の頬に手を添えて呟いた。
「もう、絶対に逃げません。……いいえ、レオン様のこの恐ろしいほどの包囲網からは、もう天地がひっくり返っても逃げられないと身を以て分かったので……どうか、安心してくださいね」
ハッと目を見開く僕に、アリアは降伏を告げるような、心からの優しい微笑みを向けたのだった。
──そうして、僕たちは初めて、本当の意味で朝まで一つになって過ごした。
僕は彼女を失う不安で一睡もできず、アリアは自分が今までしてきた「夜逃げ未遂」の数々を、僕の胸の中で何度も何度も健気に謝罪した。
そして翌朝、僕が「君が隣にいないと、不安で夜も眠れない病にかかった」と深刻に訴えると、アリアは呆れ半分、愛おしさ半分といった顔で笑い、「レオン様が安心できるのなら」と、ついに自分の部屋を引き払って正式に同室になることを許可してくれたのだった。
もう、繋ぐ扉すら必要ない。
完璧な策士の張り巡らせた執着の檻の中で、本物の才女は、生涯消えない極上の愛に満たされ続けるのだった──。




