番外編:理性の限界
エリシアに扮しているアリアは、本来の彼女の性格では決してあり得ない積極性で、僕の腕に必死にしがみついている。
本人の意図とは真逆の「捨て身の作戦」なのだろうが、僕にとっては、この機会を逃せば二度と得られない至高の天国だった。生まれながらに高潔な淑女として教育を受けてきた彼女が、このような女の武器を使うような行動など、平時であれば死んでもしないだろう。
だが、ここであまりにも彼女を求めすぎてしまえば、僕が「エリシアを本当に婚約者として選んだ」と彼女に誤解させ、アリアの心を深く傷つけてしまう。
(一体、どこまでなら理性を保ったまま触れていいんだ──!?)
僕は、目の前に突然降臨した天使の前に、完全に敗北していた。この清い生き物に指一本手が出せない「紳士の自分」と、このまま二度と逃げられないように既成事実を作ってしまえと囁く「獣の自分」が、脳内で激しい白兵戦を繰り広げている。
「……貴方から、そんなに積極的に僕の腕にくっついてくれるなんて、新鮮ですね」
「だって……っ、わたくし、レオンハルト様のことを、心からお慕いしておりますもの……❤」
(なんで君は、その最悪なフリルのドレスを着て、そんなに最高なセリフを吐いちゃうかな!?)
アリアは耳まで真っ赤に染めながらも、必死に「エリシア風の小悪魔」を演じて僕を誘惑しようと挑んできている。だが、その上気したリンゴのような頬と、恥ずかしさに潤んだ瞳の破壊力は凄まじかった。僕の理性の堤防は、今にも決壊寸前だ。そもそも、愛する女性からの熱烈なアプローチを無視できる健康な男など、この世に存在するはずがない。
「それとも……このような、素直なわたくしでは……お気に召しませんの?」
彼女はすがるように、上目遣いで僕の顔を覗き込んできた。羞恥のあまり、その長い睫毛には薄すらと涙が浮かんでいる。
「いや(控えめに言って宇宙一です)」
僕の喉から出かけた本音をどうにか飲み込む。そんな僕の壮絶な葛藤など露知らず、アリアはさらに僕の腕に胸を押し当てるようにして絡みつき、挙げ句の果てにはトスン、と僕の肩にその小さな頭を預けてきた。
(──待て。この愛らしい生き物を、本来なら『エリシアとして』冷酷に撥ね退けなければいけないのか? いや、そんなもったいない(暴挙)ことをする必要がどこにある? これは彼女たちが仕掛けた作戦なのだ。もしここで作戦が失敗したと看破すれば、アリアが部屋に戻った後、あの妹からまた暴力を振るわれるかもしれない。……そうだ。これは不埒な邪念などではない。彼女を守るための、極めて正当な防衛行為だ)
僕は自分に都合の良い尤もらしい理由(言い訳)を並べ立て、彼女を抱きすくめる腕にさらに力を込めた。
──しかし、そんな甘美な天国は、長くは続かなかった。
数日後。エリシア嬢の作戦は上手くいっているはずなのに、アリアが突如として、僕に指一本触れてこなくなったのだ。
お茶会の裏で、本物のエリシアから「あんた、調子に乗ってレオンハルト様に触りすぎよ! 離れなさい!」とでも嫉妬混じりの命令が入ったのだろう。あまりにもこれまでの行動原理からして不自然極まりない。浅はかで強欲な妹の、いかにも考えそうなことだ。
だが、命令されたからといって、僕から従順に離れてみせるアリアの態度に、僕の心の中で「何か」が決定的にキレた。
「……今日は、僕に触れてくれないのですね?」
自習室の机を挟み、僕は冷え切った声で問いかけた。アリアは一瞬ビクリと肩を揺らしたものの、必死にエリシアの口調を真似て、苦し紛れの笑みを浮かべる。
「お、押してダメなら引いてみろ、と言うではありませんか……? たった数日触れ合わなかっただけで、寂しくなってしまわれましたの? レオンハルト様──」
僕は、猛烈な怒りと、それ以上の暗い独占欲に支配されていた。
後ろの席で、計画通りだとばかりに邪悪にほくそ笑んでいる本物のエリシアの存在も、僕の目の前で必死に「妹のフリ」をして僕を欺こうとしているアリアの事情も、すべてを放り出してこの茶番を強制終了させることにした。
要は、僕が──「今ここにいる、君」を、ヴァルツァー侯爵家の絶対的な権力で選んでしまえば、それで終わりなのだ。
「ええ、寂しかったですよ。……だから、僕ももっと、貴方と深く触れ合いたいと願っていたところです」
「えっ……?」
アリアが驚愕に目を見開いた瞬間、僕は机を回り込み、彼女の華奢な身体を強引に抱きすくめて、その柔らかな唇を我が物顔で塞いだ。
「ん……っ!?」
深く、息もできないほどの烈しい初めてのキス。
アリアは顔をいつものように鮮やかなリンゴ色に染め上げながらも、健気なまでに「エリシアの演技」を崩そうとしない。本当は心臓が破裂しそうなほどいっぱいいっぱいのくせに、拒絶すれば作戦がバレる恐怖から、涙目を浮かべて僕の首に細い腕を回し、必死に応じようとしてくる。
そのあまりの健気さと哀れさに、僕の胸の奥の暗い執着が、一気に暴走を始めた。
(僕に愛を囁く演技をしながら、裏では僕から永遠に逃げ出そうとしているなんて……なんて残酷で、酷い女性だ。それなら僕は、力尽くで君のすべてを奪うしかないじゃないか)
「──一緒に来てください」
「あ、あの……っ、レオンハルト様……!?」
僕はアリアの腰を抱き抱えるようにして、半ば強引に彼女を連れ出し、誰の立ち入りも許されない僕自身の寝室へと誘い込んだ。
ガチャン、と重々しい鍵の閉まる音が響く。僕の理性は、もうとっくに限界を迎えていた。
アリアを広いベッドの上へと押し倒し、その悪趣味なドレスの背の紐に手をかけ、容赦なく引き解いていく。
「お待ち、ください……っ、レオンハルト様、これでは、あまりにも、順序が──っ」
恐怖と快感に震えるアリアが、ついに「本性」を現して僕を突き飛ばすのか。それとも、このまま身代わりのエリシアとして、僕の腕の中にすべてを委ねるのか。
(どちらでも構いませんよ、アリア。……君がどんな嘘を吐こうと、僕はもう、君を絶対に逃がさないのだから)
カーテンが閉め切られた薄暗い寝室の中で、僕は彼女の白い肌に狂おしいほどの執着の証(刻印)を刻みつけるべく、深く、深く、彼女の身体へと覆い被さっていった──。




