夜逃げ馬車の行方、そして永遠の独占契約
我が侯爵家が握っていた「本物の才女」としての証拠。そして社交界で本当に悪名を振りまいていたのが誰だったのか。
ノアとキース、そして二人の婚約者たちが完璧に仕掛けた罠の記録により、すべての真実が衆目の前で完全に証明された。
静まり返る大広間の中、アルベルト様はゆっくりと、床に膝をついて震える父へと歩み寄り、静かに語りかけた。
「ロベルト……。これまでの罪を不問にするわけにはいかない。我が家との取引はすべて白紙だ。だが……君の古い友人として、最後に一つだけ、どうしても頼みがある。──君はこれから先、エリシア嬢を独房に閉じ込めるような真似だけは、絶対にしないでくれ」
その想定外の慈悲深い言葉に、父は涙に濡れた顔を上げ、呆然と侯爵を見据えた。
「いいか、ロベルト。今回エリシア嬢が暴走してしまったのは、君が彼女自身の資質や器を一切顧みず、我が家と釣り合うための過酷な勉強を無理やり押し付けたことが最大の原因だ。彼女はただ、両親に認められたかったのだろう。その歪んだ承認欲求を満たすために、悪事を働いて姉に勝つしか方法を見つけられなかった。彼女がひとえに勉強嫌いになり、虚飾に走ってしまったのは、君の独善的な教育の仕方に問題がある」
「侯爵、様……っ」
「本日を以て、君は私の友人ではなくなる。だが、これだけは言わせてほしい。エリシア嬢は医学の勉強こそ適性がないが、美しいドレスや美味しいお菓子、そして華やかな社交の場は心から好きなようだ。彼女の資質に合った、彼女が輝ける淑女の道は、探せばきっと他にあるはずだ。それを見極めて育てるのが、親の務めではないのか? 君の元に残された家族を、そして娘を幸せにできなくて、一体何が一族の繁栄だ」
アルベルト様の、優しくも重い叱咤──。
その言葉は、野心に目を眩ませて家族を壊していた父の心に、鋭く突き刺さったようだった。
「ううっ……、ああ、あああ……っ! おっしゃる通りです……! 私は、貴方に出会った若い頃から、何一つ変わらない未熟者のままでした……! 娘たちを、ただの道具としか見ていなかった……っ」
大広間の中心で、声を上げて泣き崩れる父と母。そして、生まれて初めて「自分の本質」を認められ、同時に犯した罪の重さに気づいたエリシアもまた、涙を流して床に伏した。
最後に見苦しい足掻きを止め、三人は並んで壇上へ向かい、深く深く、これ以上ないほど綺麗に頭を下げた。
「侯爵閣下、そしてご来賓の皆様。我々グレインフィール家が社交界を揺るがし、この神聖な生誕祭に多大なる混乱を招いたことを、平伏して深くお詫び申し上げます。……どうぞ、レオンハルト小侯爵様とアリア嬢の、輝かしい未来をお祝いくださいませ」
静かな拍手が送られる中、三人は静かに会場の外へと歩き出した。その去り際、レオンハルト様がエリシアに向けて、極めて事務的に声をかけた。
「エリシア嬢。君の着替えなどの荷物なら、すでに『アリアが東部へ向かうために手配していたあの馬車』にすべて積み込んである。そのまま伯爵邸へ戻るといい」
「えっ……!?」
エリシアがキョトンとした顔で振り返る。
──だが、それ以上に血の気が引いたのは、他ならぬ私だった。
私は、隣で私を抱き締めているレオンハルト様を、今度こそ本物の「恐ろしいもの」を見る目で見上げ、ガタガタと震え上がった。
(ま、まさか……私が裏でこっそり、誰にもバレないように手配していたあの夜逃げ用の定期馬車のことまで、すべて把握されていたというの……!? しかも、私の逃走用の馬車が、エリシアたちを実家に送り返すための帰還用に作り変えられているなんて……っ!)
「あ、あの……レオンハルト様……。大変申し訳ございません。私、本当は、今日この場から静かに立ち去ろうと……」
恐る恐る告白する私に、レオンハルト様は私の腰をがっしりと抱きすくめたまま、極上の、けれど一切の逃げ道を許さない漆黒の微笑みを向けた。
「許さないよ、アリア」
その甘やかな作り笑いに、本当に何から何まで、私の脳内の作戦まですべて見透かされているのだと身体が震え上がる。
「僕は君の憂いをすべて取り払い、君が僕を選んでくれるための完璧な舞台を用意した。君は二度も僕のプロポーズを(一度はエリシアの姿で)受け、あの寝室で僕と熱い一夜を過ごしたというのに……まだ僕の手から逃げ出そうとするんだね。だけど、人生には『三度目の正直』という言葉がある。今度こそ君を僕の隣に繋ぎ止めるために、絶対に破れない強固な包囲網を敷かせてもらったよ。君はあの馬車がなければ、もうこの敷地から一歩も出られない。ちなみに、部屋のクローゼットの奥に隠してあった、あの大きな夜逃げ用のバッグも、悪いけれどすべて事前に回収させてもらったからね?」
「そ、そんなことまで……っ」
絶望だった。私が彼の知略の上を潜り抜け、このヴァルツァー侯爵家から逃走できる日など、この先一生、天地がひっくり返っても来ないのだと完全に理解させられた。
私の冷遇されてきた過去や悪評のすべてを、彼の将来の邪魔になると思って身を引こうとしたのに。彼は私のすべてを知った上で、実家を巻き込み、世界を敵に回してでも、私という存在のすべてを求めてくれた。
それに──私の心は、最初から彼に握られたままなのだ。
私の浅知恵など、この美しい策士の前にいとも簡単に無へと帰す。これまで「彼との幸せな未来」など、身分違いだと諦めていただけに猛烈な戸惑いもあったが、もはや私に拒否権(選択肢)など残されていなかった。
会場中の貴族たちが息を呑んで見守る中、レオンハルト様は純白のタキシードの膝を私の前でつき、美しく輝くベロアの箱から、一本の指輪を差し出した。
「アリア・グレインフィール嬢。私、レオンハルト・フォン・ヴァルツァーと結婚してください。──君の自由は、これからの生涯、すべて僕が奪う。返事は『はい』の一択だ」
目の前に差し出されたのは、今の彼の琥珀色の瞳のように、どこまでも澄み切った大粒のダイヤモンドが嵌め込まれた、眩い指輪だった。
私の正しい評価が、彼と、彼の家族と、友人たちの手によって白日の下に晒された今。
私の胸は、言葉にできないほどの大きな感動と、そして「二度と逃げられない」という極上の恐怖で、張り裂けそうだった。
だけど、これからは大好きな医療の勉強も、そして誰よりも愛しい彼の隣にも──私はずっと、大手を振って、妻として居続けていいのだ。
「……はい、レオン様。……もう、どこにも逃げません」
降伏を告げた私を、レオンハルト様は壊れ物を扱うように愛おしく抱き締め、皆の前で深い、熱い、誓いの口づけを交わした。
こうして私は、稀代の天才策士による「完璧な包囲網」に捕らえられ、彼と生涯を共にする本物の花嫁となったのだった──。




