仕組まれた婚姻
私は彼に力強く引かれるまま、豪奢な長い回廊を歩いていた。
思えば、彼への最初で最後のお礼にと、私のなけなしの貯金で買った大切な万年筆の箱も、部屋に置いたまま連れてこられてしまった。自分が今どこに向かっていて、何が起きようとしているのか、何一つ分からない。
そうして重厚な扉が開かれ、私は人々が優雅に社交を楽しんでいる大広間へと足を踏み入れた。
私たちの格好はどう見ても夜会としては浮いているはずだが──何故か、私の知る騒がしい社交界とは違い、出席者全員が整然と席についており、私たちが姿を現した瞬間、割れんばかりの盛大な拍手で迎え入れてくれたのだ。
「え──……ええっ!?」
理解が追いつかない。けれど笑顔のレオンハルト様に優しく、けれど絶対に拒絶を許さない鉄の力で手を引かれ、私はそのまま会場の中心にある壇上へと向かっていった。
この大衆の前で彼を問い詰めることもできず、私はただ、涙が出そうなほどのパニックを隠して淑女の仮面を被り、引きつった笑顔を周囲に振りまくことしかできない。
壇上に近づくにつれ、最前列の家族席にいるグレインフィール家の人々が視界に入った。
両親も、見たこともないほど驚愕と激怒に満ちた凄まじい顔でこちらを凝視している。私に今すぐ掴みかかって怒鳴り散らしたいのだろうが、周囲が侯爵家を支持する重鎮ばかりのため、辛うじて我慢しているのが分かった。
(ど、どうしてこうなったの? これじゃ、東部へ逃亡するチャンスなんてどこにもないわ。それどころか、このままじゃ伯爵家に無理やり連れ戻されて、予定通りどこかの貴族に売りに出されてしまう……! エリシアとレオンハルト様はあんなに仲が良くて、私がエリシアを演じている時にはあんなに甘いプロポーズまがいなことまで言っていたのに、昨日のデートで何か致命的な仲違いでもしてしまったの!?)
脳内で最悪のシミュレーションが嵐のように吹き荒れる中、私を隣に従えたまま、レオンハルト様は来賓に向けて朗々たる挨拶を始めた。
「まずは、私たちのために、これほどお忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます」
私は笑顔を崩さないよう必死に耐えていたが、針のような視線を向けてくるエリシアと両親の顔を見ていられず、思わず視線を逸らした。すると、その先にいたヴァルツァー侯爵夫妻──お義父様とお義母様が、ハンカチを片手に今にも涙腺を崩壊させそうな、深い慈愛に満ちた瞳で私を見つめていた。
「この度、私、レオンハルト・フォン・ヴァルツァーは、ここにいるアリア・グレインフィール伯爵令嬢と正式に結婚することをここに宣言いたします」
「!!!!?」
(い、いつ決まったの──!? というか、婚約じゃなくて、今、結婚って言ったわよね、この人!?)
あまりの衝撃に心臓が止まるかと思った。内心で絶叫しつつも、私は隣のレオンハルト様の美しい横顔を呆然と見上げることしかできない。
当然、会場の中には、エリシアによって捏造された私の最低な悪評を知る者も多く、素直に拍手を送れずに困惑の声を漏らす人々もいた。誰もが、彼が選ぶのは「グレインフィールの才女」と名高い妹のエリシアだと思い込んでいたのだ。
「え、アリア嬢って……あの王城の社交界で、下品に花瓶をひっくり返したっていう、あのご令嬢?」
「男好きで、パーティーの度に相手に婚約者がいようとお構いなしに誘惑して回っているという、あの頭の空っぽな……」
周囲から口々に冷酷な噂話が聞こえてくる。そのどれもがエリシアによって着せられた濡れ衣とはいえ、間近で直接浴びせられると、胸がすうっと冷たくなって傷ついてしまう。
それに何より、今は目の前の理解できない状況に、私の心臓はバックンバックンと狂ったように音を立てていた。背中を冷や汗が伝い、全身の細胞が「今すぐここから逃げろ」と警報を鳴らしている。
「どうか皆様、私たちの新しい門出を、今後とも温かく応援してください」
形ばかりの会場の拍手が向けられる中、私は笑顔の仮面の裏で、彼に必死に囁きかけた。
「あ、あの……小侯爵……いえ、レオン様! このようなお話、私、一言も聞いていないのですが……っ」
すると、レオンハルト様は私の腰をグイと引き寄せ、会場の誰の目から見ても完璧な「熱烈な抱擁」の形で私をその強固な胸に閉じ込めた。
「アリア。盛大なパーティーにして、みんなの前で正式に発表すると、事前に僕の口から言ったじゃないか」
「た、確かにそれは聞きましたが……! そういう意味ではなくて、貴方はてっきりエリシアと……っ」
「それに、君は『もう絶対に離さないで』と、僕のプロポーズを必ず受けてくれると、あの夕暮れの庭で僕の腕に抱きついて約束してくれただろう?」
「あっ──……えっ!?」
私は必死に記憶を遡った。私がヴァルツァー侯爵家に来てから、そんな大胆なことを言った記憶は、天地がひっくり返っても絶対にない。
いや……正確には、あった。あったけれど、それはエリシアのドレスを着て、完璧にエリシアを演じていた時の、あのうたかたの夜の私で──。
(まさか……あの、完璧だったはずの私の演技が、最初から、すべてバレていたというの……!?)
驚愕のあまり、私は彼の胸を押し返そうと両手に力を込めたが、彼の逞しい身体はピクリとも動かない。レオンハルト様は私の耳元に唇を寄せ、周囲には聞こえない、ぞっとするほど深く甘い声音で囁いた。
「僕が、愛する君の魂を間違えるわけがないだろう、アリア。……でも、君が必死にエリシアのフリをして僕の腕にまとわりついてくれたことも、僕の名前を呼んで積極的に好意を示してくれたことも、死ぬほど嬉しかったよ。だから、たっぷり付き合ってあげたんだ」
「う、嘘……あれが、全部、最初からバレていたなんて……っ」
彼の底知れない洞察力を侮っていた恐怖と同時に、自分の恥ずかしすぎる行動のすべてが脳裏を駆け巡り、猛烈な羞恥で顔が爆発しそうに熱くなった。
エリシアの真似をして、彼の腕にくっついて、まだ許可も貰っていないのに「レオンハルト様」だなんて名前を呼んで、縋るように甘えて、キスをして──あろうことか、そのまま彼と、あの寝室で一線を越えてしまったのだ。
恥ずかしさと情けなさで、今すぐこの場で顔を覆って消え去りたい。
しかし、そんな私のパニックを切り裂くように、今まで信じられないものを見る目で静観していたエリシアが、ついに我慢の限界を迎えてヒステリックな怒鳴り声をあげた。
「──ふざけないで! どうして……っ、どうして『完璧な才女』であるわたくしではなく、そんな、男好きで無能なアリアなんかが選ばれるのよ!! レオンハルト様、貴方は騙されているわ!!」
狂ったように壇上へ詰め寄ろうとするエリシア。
その姿を見つめるレオンハルト様の琥珀色の瞳が、待ってましたと言わんばかりに、冷徹で、残酷な『捕食者の笑み』へと変わったことに──怒り狂うグレインフィール家の人々は、まだ誰も気づいていなかった。




