限界突破の茶番劇
私が侯爵夫妻と「お義父様・お義母様」と呼び合うほど打ち解けてからというもの、私にとって最大の試練が訪れていた。
いつもの穏やかなアフタヌーンティーに、よりにもよって──あの、レオンハルト様が突如として乱入してきたのだ。
私のパニックと脳内シミュレーションは、すでに計り知れない領域(限界突破)に達している。
何しろ、あの一線を超えてしまった夜以来、彼と顔を合わせるのは初めてだったのだ。それも同じソファーの、信じられないほど近い距離に並んで座っていれば、動揺するなという方が無理である。
(お、落ち着くのよ、アリア……っ。この場は侯爵家の公務のための休憩なのだから、次期当主の彼がいるのは当たり前。ここで私が妙な動きをしたら、あの日ベッドを共にした『エリシアのフリをした女』の正体が私だとバレてしまう! 絶対に顔に出すわけにはいかないわ!)
本当なら、その場から一秒でも早く逃げ出したい私を、レオンハルト様は極上の、けれどどこか逃がさないという底知れない光を孕んだ笑みを浮かべて見つめていた。
「貴方は執務も完璧だと両親から聞きましたよ、アリア。僕たちの家の仕事を行っていただき、心から感謝しています」
「い、いえ……そんな、滅相もございません……」
有無を言わせぬ美貌の笑顔で、彼はごく自然な動作で、私の小さな手を彼の手で包み込むように重ねてきた。払えるはずもなく、私は心臓が跳ね上がるのを感じながら彼を凝視した。
「!!!?」
すると──何を血迷ったのか、レオンハルト様はそのまま私の指の間に、自分の長い指を深く滑り込ませてきたのだ。お義父様とお義母様の前で、堂々と恋人繋ぎをして仲の良さを見せつけている。驚きのあまり、私は目を限界まで見開いた。距離が、物理的な距離が近すぎます!
「……何か?」
「あ、あの……っ、小侯爵様……っ、手、手が……」
ガチガチに緊張して消え入りそうな声で尋ねる私に、彼はふっと美しい目を細め、とろけるような甘い笑みを向けた。
「家族の間柄なのですから、そのように他人のような気を遣わずとも大丈夫ですよ。ほら、もっと力を抜いて」
(えっ、家族の間柄……!? これ、義理の妹(になる予定の人間)に対する扱いなの……? ヴァルツァー家のスキンシップの基準が分からない!? 触診?触診なのかしら?)
「ははは! レオン、そこまでにしないか。アリアちゃんが困り果てているじゃないか」
対面に座るアルベルト様から、楽しげなお助け(?)の声がけをいただく。まだ呼び慣れなくて気恥ずかしいけれど、日中の執務を共にしていくうちに、すっかり私の口に馴染んでしまったあの方の「お名前」が、縋るように口を突いて出た。
「お義父様……お願いします。私はこのような扱いには慣れておらず、居たたまれないです……っ」
「まぁ、なんて初々しくて可愛い反応なのかしら、アリアちゃん。ここには私たち『身内』しかいないのだから、何も気にすることないのに」
「お義母様がそうおっしゃるなら……。ですが、お二人を前にして、私は本当に恥ずかしくて……」
私が小さく肩をすぼめた、その瞬間だった。
ガチャン──ッ!!!
隣で、レオンハルト様がティーカップをソーサーに置く、あからさまに不穏で鋭い音が響いた。
「……アリア? 今、なんと言いました? 『お義父様』……? 『お義母様』……? 貴女がた、僕の知らない間に、いつの間にそこまで深く呼び合うほど仲良くなっているのですか?」
見れば、レオンハルト様のいつも完璧な美貌が、見たこともないほど嫉妬に満ちた、恐ろしい不機嫌顔に染まっていた。
「おいおい、男の嫉妬は見苦しいぞ、レオン」
アルベルト様がニヤニヤと意地の悪い父親の笑みを浮かべて、楽しげにカップを傾ける。
「そうよぉ。私たちは日中、うんと仲良く一緒に領主の執務を行っているもの。まぁ、貴方よりも私たちがアリアちゃんと仲良くなってしまったのは、いわば必然よね? 貴方が強行突破(※夜襲)にばかり出るから、アリアちゃんが固まってしまうんじゃない。物事は徐々に、よ?」
フフフ、と実に楽しそうに息子を煽る侯爵夫妻。なるほど、お二人は身内をからかって遊ぶのがお好きな、ちょっと悪い癖がある方々なのだわ! 自分たちの呼び名変えさせたのも相当強引だったのに、棚に上げてレオンハルト様を責めていらっしゃる。こんな個性的な親御さんを持って、レオンハルト様も大変そう……などと、私が呑気に同情の眼差しを向けた、その瞬間。
──グイッ、と力任せに引き寄せられた。
彼は繋いだままの私の手をさらにギュッと握り締め、心臓が止まるほどの至近距離まで顔を寄せてきたのだ。彼の琥珀色の瞳は、完全に据わっている。
「アリア、どうして……。僕が『小侯爵(役職名)』で、僕の両親が『お義父様・お義母様』と、僕を差し置いて先に特別な呼び方をしているのですか? 明らかにおかしいでしょう」
「えっ、それは、お二人がそのように呼ぶよう許可を下さったからで……あの、離してっ……」
「レオンです」
「え、えええ!?」
「ほら、僕のことも『レオン』と、敬称なしで呼んでください。今すぐに」
(無理です無理です!! どうして私にそんな拷問を!? 恥ずかしさで死んでしまいます!!)
あまりの羞恥とパニックで脳内が爆発しそうだ。必死で助けを求めて横を見ると、お義父様もお義母様も「やれやれ、もっとやれ」「息子、もっと必死になりなさい」とばかりにニコニコと特等席で見物している。目の前のレオンハルト様は、名前を呼んでもらうまで絶対に引かないという、凄まじい執念の目で私を見つめ続けている。
この冷酷かつ甘美な包囲網に耐えかねて、私は消え入りそうな蚊の鳴くような声で、真っ赤に染め上げた顔を空いた手で覆いながら呟いた。
「レ、レオンさ……っ、やっぱり無理です……! お義父様、お義母様、助けてください……っ」
その途端、夫妻はまるで世界を手に入れたかのような眩しい大満面の笑みを咲かせ、それを見たレオンハルトはさらに嫉妬で目つきを鋭くした。
「可愛い! 可愛すぎるわ、アリアちゃん! ちょっとレオン、そんなにアリアちゃんを赤くさせて可哀想じゃない。私が席を代わってあげてもいいわよ? 女同士の方が気楽でしょう?」
「あ、あの、お義母様、是非……!」
「いや、間をとって私の横はどうだい? 最近の執務でも私につきっきりだったろう? 遠慮はいらないよ、おいで」
「も、もちろん、お義父様も……!」
「お二人にアリアを譲るわけがないでしょう! お父様もお母様も、大人しくそこに座っていてください!!」
私の腰にガッチリと強固な腕を回し、これでもかとぴったり身体を密着させてくるレオンハルト様。気恥ずかしさで顔がどこまでも熱くなっていく私を前に、なぜかヴァルツァー侯爵家の人々は、レオンハルト様を筆頭に大盛り上がりで「アリアちゃんの隣の席替え戦争」を繰り広げている。
「いや、今回のお前の誕生日は、本当に盛大に行わなければならないな」
アルベルト様が満足げに頷く。
「いよいよ、婚約者のお披露目だものね。ここまで来るまで本当に長かったわ……なんだか感慨深いわね、レオン」
そう、いよいよ。
私がこの温かい家を去る日が、すぐそこまで近づいていた。
何故こんなにも全員から生暖かい、愛おしそうな目で見られているのか私には分からなかったけれど、きっと、妹のエリシアをびっくりさせるための「婚約サプライズ」の用意を、私も手伝うのだろう。
そんな風に解釈したら、すっと頭が冷えて、冷静になれた。
もう、東部へ逃げるための資金は充分に溜まった。
私は近々、このあまりにも眩しくて、暖かな、偽物の家族の家を去る。彼らの本当の幸せを邪魔しないために。
ドレスの奥に隠した求人票の文字を思い出しながら、私は彼らの賑やかな笑い声の中で、静かに最後のカウントダウンを始めるのだった。




