鉄壁の書類山、そして愛され「お義娘様」
コト、コト、と緊張で硬くなる足音を響かせ、執事に案内されるまま、私は侯爵家の厳かな執務室へとやってきた。
「どうぞ、入りなさい!」
扉が開くと、中には「待ってました!」とばかりに、執務机の上にとんでもない『書類の山(連峰)』を築き上げたヴァルツァー侯爵夫妻が私を待ちわびていた。私はその反り立つ紙の壁を見た瞬間、途方もない道を選んでしまったと一瞬後悔した。なるほど、この絶望的な量では赤子の手も借りたくなるわけだ。
「やぁ、よく来たね、アリアちゃん!」
「さぁ、貴方のお席は私のすぐ横よ! さっそく書類精査から行いましょう!」
「お待たせいたしまして、誠に申し訳ございません。どうぞよろしくお願いいたします」
私はお二人に完璧な角度でお辞儀を行い、その日の実務がスタートした。
最高峰の医師の家系とはいえ、同時に広大な領地を統治する偉大な貴族でもあるのだ。お二人の日常は想像を絶するほど多忙を極めていた。
机の上に果てのない書類の束が積み上がっているのを見て、胸が締め付けられる。
(もし私のミスで二度手間になれば、お二人の貴重な睡眠時間が削られてしまう……っ!)
私は全神経を研ぎ澄ませ、凄まじい集中力で書類のチェックに取り掛かった。平民の村で、限られた医療資源の管理や薬の収支計算をたった一人でこなしてきた私にとって、この手の数字の精査はむしろ基礎的なものばかり。「ここはもっと予算を削れます」「この商会との契約書、条項に不備がありますわ」と、二重、三重の厳重な確認を入れ、凄まじいスピードで処理を施していく。
「フフフ……アリアちゃん、そんなに神経を限界まで尖らせては身が持たないわ。もっと気楽にやっていいのよ?」
「ですが、侯爵夫人に無駄な手間をおかけさせるわけにはまいりません!」
「……まぁ。本当に貴方はどこまでも謙虚で行儀の良い子ね。アルベルトの手伝いもしてあげて」
セレナ様は愛おしそうに目を細め、私の頭を何度も何度も、慈しむように撫げてくださる。
さらに、その仕事ぶりに目を丸くした侯爵・アルベルト様からも声がかかった。
「ほう……? 熟練の補佐官が悲鳴を上げるレベルのスピードだな。では次は、私の専門分野である医療予算の書類を手伝ってもらおうか」
「はい!」
私が的確な処理を行うたびに、アルベルト様は「素晴らしい……! まさかこれほどの才覚があるとは!」と目を見張り、セレナ様も「本当に、うちの家に必要な最高の宝物だわ!」と、二人は瞬く間に私を大お気に入りとして甘やかすようになった。
────→────
数日後。あれほど絶望的だった書類の山は完全に駆逐され、執務室には優雅にアフタヌーンティーを楽しめるほどの平和な時間が訪れていた。
「いやぁ、実に見事な事務処理能力だ! これなら将来、ヴァルツァー侯爵家をアリアちゃんに丸ごと任せても、何一つ問題はなさそうだな!」
サクサクと完璧に片付いた机を見つめ、アルベルト様が最大級の賛辞を贈ってくださった。
私はもちろん、これが高位貴族特有の「優秀な部下を引き留めるための社交辞令」だと100%理解しているので、背筋をピシッと伸ばして真面目に、そして満面の笑みで答えた。
「お褒めに預かり光栄です! 私のような(実績もない日陰者の)者でも、ヴァルツァー家の『事務員(補佐官)』としてお役に立てるのですね!」
「「――――」」
私の完璧な(はずの)返答を聞いた瞬間、侯爵夫妻は揃って目を点にさせ、手に持っていたティーカップを止めて完全に凝固した。
(……え? 何をそんなに驚かれているのかしら。私、何か不適切な発言をしてしまった?)
数秒の死んだような沈黙の後、アルベルト様が深すぎる溜息を吐き出して頭を抱えた。
「アリアちゃん……。君は、本当にどこまでも謙虚すぎるね……。これほどの素質(トップクラスの医者と内政の才能)があるのに、どうしてそんなに自分が下にいるのが当たり前みたいになってしまっているんだ……。おじさん、あまりのピュアさと、君の実家の環境(育ちの悪さ)を察して胸が苦しいよ……」
「わ、私、何か致命的な、至らない点が……!? すぐにやり直します!」
顔を真っ白にして本気で絶望する私を見て、セレナ様が悲痛な面持ちで、そっと私の隣に座って寄り添ってくれた。
「これも全部、あの実家の教育のせいなのかしら……。これほど優秀な我が子を認めないなんて、見ていて痛ましいわね……」
「えっと? そ、そうなのですか?」
(私の実家のこと……? でも、私は家族から冷遇された過去は隠しているはずなのに、どうしてそんな悲しそうな顔をされるのかしら……)
よくわからないまま首を傾げる私に、夫妻は顔を見合わせると、一転して猛烈な「親バカの笑み」を浮かべて私を包み込んできた。
「アリアちゃん、私の娘! さぁ、そんな他人行儀で硬い呼び方は今すぐ禁止! ほら、私のことを『お義母様』って呼んでみて頂戴!」
「ええっ!? ど、どうしてそんなことに……!?」
「なんなら、私のことは『パパ』と呼んでもいいぞ? もしくは『お義父様』だ。さぁ、どっちがいい?」
「パッッッ!? そんなの、畏れ多すぎて、私には……っ!!」
パニックになる私の頭を、セレナ様もアルベルト様も、本当に優しい手つきで何度も何度も撫でてくれる。業務を終えた私に温かなお茶を淹れ、お気に入りの美味しいお菓子を次々と小皿に用意してくれるその姿は、冷徹な高位貴族のそれではなく──私がずっと夢に見ていた、穏やかで温かい「本当の家族」の光景そのものだった。
「ほらほら、もうここは貴方の家と思ってくつろいでくれていいのよ、アリアちゃん。ちゃんと言えないと、私のことも『ママ』と呼ぶ羽目になるわよ?」
「『お義父様、お義母様、いつもお仕事お疲れ様です』だ。さぁ、リピートアフターミー!」
「フフフ、お二人とも……そんな、職権乱用です……っ!! すぐには無理ですよ……っ」
胸の奥が、じんわりと、泣きたくなるほど温かい。
結局、私がいくら涙目で「妹のエリシアが……」「私はただの補佐官候補で……」と正論を訴えても、私を実家の呪縛から解放して全力でプロテクトしたい侯爵夫妻の、圧倒的な権力と親バカのパワーに押し切られ──。
私はこの日から、侯爵夫妻のことを「お義父様(※たまにパパ)」「お義母様」と呼ばされる、甘くて不条理な『外堀埋め家族地獄』を味わうのだった。




