無自覚な檻の中へ
翌朝、私は夜が明けるよりも前に、全身を貫く重い鈍痛と共に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む薄暗い黎明の光の中、視線を巡らせれば、すぐ傍らにはまだ深い夢の中にいるレオンハルト様が横たわっている。
乱れたシーツ、肌に触れる彼の体温、そして部屋を満たす、甘く切ない事後の残り香──。
(ま、まさか……私が、妹の婚約者を寝取る(NTR)ような真似をしてしまうなんて……っ! いや、寝取ったわけではないけれど……でも、生の別れとはいえ、あの場の雰囲気に流されすぎてしまったわ……!)
心臓が早鐘を打ち、顔が火を噴きそうなほど熱くなる。
私は彼を起こさないよう細心の注意を払いながら、乱雑に散らばったレオンハルト様の私室を歩き、床に落ちていた自分の衣類を拾い上げた。
(私は、なんて破廉恥なことをしてしまったの……!)
終わってみれば、押し寄せてくるのは猛烈な後悔と羞恥だけだった。これほど深く結ばれるつもりなど、本当になかったのだ。けれど、どうしても自分から彼の手を離すことができなくて、あんなにも貪欲に、彼に身も心も全てを委ねてしまった。
さすがの奔放なエリシアだって、正式な婚姻前の婚前交渉など行わないだろう。もしこの「事後」の事実がエリシアや実家にバレたら、それこそ実家の地下牢に一生閉じ込められるだけでは済まないはずだ。
だが、ここで致命的な問題が発生した。
私の地味な普段着ならともかく、今手に持っているエリシアの豪奢なドレスは、侍女の手を借りなければ私一人で着ることなど絶対にできない仕様になっている。
かと言って、この肌に色濃く彼の痕跡を残した完全な「事後」の姿で、廊下を歩いて彼女の部屋を訪れるわけにもいかない。残された道はただ一つ。レオンハルト様の寝室と、私の寝室を繋ぐ、あの『コネクティングドア(内扉)』を通ることだけだった。
(でも、あのドアを通って私の部屋へ戻れば、私が『エリシア』ではなく『アリア』であることが、彼に完全に狂いなくバレてしまう……!)
騙されたと確信したレオンハルト様が、激怒して私を不敬罪で兵に突き出してしまうのではないか。そんな恐怖に身を震わせながらも、私は恐る恐るドアノブを握り、音を立てないようにゆっくりと回した。そして、静かに、本当にゆっくりとドアを押し開けていく。
「んっ……──」
その瞬間、ベッドの方からレオンハルト様の低い寝言が聞こえ、私の身体はビクッと跳ね上がった。
全身から冷や汗が吹き出し、眠気など一瞬で吹き飛んで脳みそが完全に覚醒する。彼の美しい顔がこちらを向いてはいたものの、どうやらまだ深く眠っているようだった。
(レオンハルト様は入れ替わりに気づいていないから、エリシアがアリアの部屋のドアを使ったのだと、後から言い訳すれば誤魔化せるはず……!)
そんな都合の良い自己弁護を必死に唱えながら、私はほっと胸を撫でおろし、最小限の隙間から自分の部屋へと滑り込み、また静かにドアを閉めた。
身体中が、芯から痛む。
一歩歩くだけでもきつかったが、私は洗面台のタオルを手に取り、簡単に身体を拭いてから、急いで自前の素朴な寝間着に身を包んだ。そして自分のベッドへと潜り込み、震える身体を丸めてもう一度眠り直したのだった。
────→────
翌朝、私の「花嫁修業」は、奇妙な形で終わりを迎えていた。
もう医療実習などの予定は組まれず、私はただ、侯爵夫人であるセレナ様と日課のお茶を楽しんでいた。
そして、傷ついた私の心に追い打ちをかけるような、けれど同時に「逃亡資金」を得るためのこれ以上ない最高の大義名分が、突然向こうからやってきたのだ。
「アリアちゃん……貴方、もしよかったら私の侯爵夫人としてのお仕事、少し手伝ってみない?」
上品に紅茶を嗜みながら、セレナ様からそんな驚くべき提案をされた。
度重なるマナー違反や不手際により、エリシアがこのお茶会に呼ばれなくなってから、この席には私しかいない。
「よ、よろしいのですか……? 私はまだ、小侯爵様の『婚約者候補の一人』に過ぎず、正式に認められたわけでもありませんのに……。そんな私が、侯爵家の事業や内情の詳細を知るようなことになってしまっては……」
戸惑い、遠慮する私に、セレナ様はどこまでも優しく、慈愛に満ちた微笑みを向けた。
「いいのよ。もう、レオンの婚約者は決まったも同然ですもの……ね?」
「それは……、そうですが……」
(ああ、やっぱり……。セレナ様も、レオンハルト様の婚約者が『エリシア』に決まったことを知っていらっしゃるのね……)
胸の奥が、ズキリと冷たく傷ついていく。
それならば、私は一応「未来の小侯爵夫人の実姉」という身内になるわけだ。だからセレナ様は、義理の娘(になる予定のエリシア)の姉として、私をこうして気遣い、関わってくださっていたのだ。
「もちろん、タダで手伝ってとは言わないわ。次期侯爵夫人としての実務見習いとして、それなりに多額のお給料(手当)も出すわ。……それにね、来月はレオンの二十歳の誕生日なの。その時にきっと、みんなの前で正式に婚約者を発表するはずよ」
「そ、そうなのですね……。それでは、私も何か、お祝いの贈り物を準備しませんと……」
「まぁ! 緊張しちゃって、本当に可愛いわねぇ」
セレナ様は私をまるで本物の娘のように可愛がり、楽しそうに笑っている。
だが、今の私にとってその言葉は、何よりの救いだった。この家を離れて遥か東部へ逃げて生きるためには、莫大なお金が必要だ。医者としてすぐに就職できるか分からない今、侯爵家レベルの高度な書類仕事や財務管理を覚えることは、一人で生き抜くために絶対に強力な武器になる。
何より、多額の「給与」がもらえるのなら、あのレオンハルト様の上着を換金して思い出を汚す必要もなくなるのだ。
「喜んで、お手伝いさせていただきます」
私は決意を秘めて頭を下げた。
こうして私は、花嫁修業の時間を全て、セレサ様、そして現当主であるアルベルト様のお手伝いに費やすため、侯爵家の執務室を訪れるようになった。
もう、私に医療の花嫁修業は必要ない。実績は全てエリシアに渡したのだから、あとは彼女が未来の夫の隣で頑張ればいい。私はただ、自分の逃げ道を作るために、目の前の膨大な書類仕事に没頭した。




