夕闇の不実、うたかたの甘い罠
私は未来の侯爵夫人であり、グレインフィール家の才女・エリシアとして気品と落ち着きを取り戻し、彼のエスコートを受けて夕暮れの庭園を歩いていた。
最初に出会った頃のエリシアのように、彼に「ピクニックにでも来たのか?」などと鼻で笑わせるわけにはいかない。私自身が子供のようにはしゃぐ姿を演じることなどできないし、彼の逞しい腕にまとわりつくだけでも、今の私には心臓が破裂しそうなくらい、いっぱいいっぱいなのだから。
「貴方から僕の腕にくっついてくれるなんて、新鮮ですね……」
レオンハルト様の美しい声音が、耳元で心地よく響く。
いつもエリシアは、私の前でこうして彼の腕にしがみついていたけれど、何が新鮮なのだろう。私が一定の距離を置いたことで、まだ何か怪しまれているのだろうか。
(こうなったら、エリシアの『小悪魔さ』を全開にして、彼を繋ぎ止めなさいってことね……!)
ここで不審に思われるわけにはいかない。私は普段の自分なら絶対に言わないような、恥ずかしい言葉で彼を誘惑しにかかった。
「だって……わたくし、レオンハルト様のことをお慕いしておりますもの……。わたくし、今、夢のようで……盛大に浮かれておりますの……っ」
これ以上ないほど恥ずかしさに顔を紅潮させた。心の中で『神様、これ以上はご勘弁ください』と何十回と願う。
「それとも……こういう、素直なわたくしでは……お気に召しませんの?」
私はすがるように、完璧な上目遣いで彼をじっと見つめた。
「いや。……今の貴方の方が、ずっといい」
レオンハルト様がピタリと足を止め、ぞっとするほど熱い瞳をまっすぐに私へと向けた。その琥珀色の奥にある、冷徹な計算と狂おしいほどの独占欲に、私はまだ気づかない。
「僕も、もっと貴方と触れ合いたいと願っていたところですよ」
(……え?)
彼のあまりにも情熱的な眼差しに、私は少し驚き、胸の高鳴りを誤魔化すように慌てて別の問いを投げかけた。
「そ、そうですわ! わたくしに、レオンハルト様の本当の『好み』を教えていただけませんか?」
私はにっこりとエリシアらしい笑みを浮かべた。レオンハルト様は、腕の中の私をただ、愛おしそうに見つめていた。
「そうですね……」
そんなに難しい質問だっただろうか。彼は私の瞳をじっと覗き込みながら、言葉をじっくりと練っているようだった。
「貴方だ。私は、今の、ありのままの貴方がとても好きですよ」
彼の思ってもみなかった、魂を揺さぶるような返事に、私の心臓は跳ね上がり、息が止まった。
風になびく彼のさらさらの銀髪を、突き抜けるような琥珀色の瞳を、その美しい表情を、私はただ呆然と見とれていた。周囲に咲き誇る花々すらも彼を引き立たせるための引き立て役のようで、夕日が情熱的に彼を赤く照らしている。
「僕は幼い頃、孤独でした。天才などと謳われ、父の仕事(医療)に夢中になってしまい、気づけば世間の話題とは違うところにしか楽しみを見出せなかった。やがて友人たちと話しても、周囲に合わせるだけの退屈なものとなり、僕の方から疎遠になってしまったのです。僕は──父と母のように、心から医療の話ができる、そんな『魂の片割れ』を求めていた。貴方が才女として名声を轟かせたとき、本当に嬉しかったのですよ」
彼にそんな寂しい生い立ちがあったことに、私は胸を締め付けられた。
彼がセレナ様と楽しげに医療談義に花を咲かせていた姿。あれは花嫁修業の実技などではなく、彼らのありのままの「日常」であり、彼が焦がれ続けた理想の家族の光景だったのだ。
そうか……彼は生まれながらの医者で、この仕事に命がけの誇りと情熱を持っていたのだ。この数日間の実習を振り返るだけで、彼がどれほど真摯に医療と向き合っているかが痛いほどよく分かる。
(……ああ、やっぱり、神様はどこまでも残酷だわ)
本当の才女として、彼が求める論文を書き、彼が感動した功績を築いてきたのは、エリシアではなく、私だ。
『貴方の魂の片割れは、目の前にいる私よ!』と、そう叫んでしまいたい衝動が喉まで出かかる。
でも、彼が「才女」として選び、愛しているのは、その実績を奪い取った『エリシア』という存在なのだ。
私はまだ、往生際が悪かった。
これから東部へ逃げ、二度と彼に会えなくなるのなら──ここで、最初で最後の「悪あがき」をして、一生消えない罰を受けてもいいと、心が壊れてしまった。
「嬉しい……嬉しいですわ……レオンハルト様」
溢れそうになった涙を「嬉し涙」だと誤魔化し、私はエリシアの仮面を脱ぎ捨てるような勢いで、彼の広くて温かい胸へと縋るように抱きついた。
エリシアでなくても、今だけは、彼を射止めたのだ。これくらい我が儘に彼を求めても、神様だって許してくれるはずだ。これで心置きなく、私はこの場所からいなくなれる。
レオンハルト様は、私の強い抱擁に驚く素振りすら見せず、むしろ待ち望んでいたと言わんばかりに力強い腕で私の腰を抱きしめ、私の頭に愛おしそうなキスを落とした。
「本当に、わたくしを選んでくれるのですね……夢のようですわ」
「そうです。最初から何度も言っているでしょう。僕が選んだのは、世界で貴方だけだ。……今度、社交界のみんなの前で、正式に婚約者として発表いたします。その時は──僕のプロポーズを、必ず受けてくださいね」
(ここにいるべきなのは、私ではないけれど……)
実習が終わってそのままここに来てしまったから、入れ替わっている暇もなかった。
でも、これでいい。伯爵家の思惑通りエリシアとの婚約がこれで確定し、私は何の未練もなくこの地を去ることができるのだと、安心するべきなのだ。
私は彼の胸から顔を上げ、涙を堪えて、人生で一番の満面の笑みを作って見せた。
「はい……もちろんです」
精一杯、笑ってみせた。これが『エリシア』ではなく『アリア』としての私ならよかったのに。
まだ私は、彼への恋心を往生できていなかった。だから、彼を騙している罪悪感を抱えたまま、最後の思い出として彼の首に腕を回した。
レオンハルト様の大きな手が私の頬に優しく添えられ、ゆっくりと顔が近づいてくる。
――そして、深い、深い、奪い去るようなキスを落とされた。
私も彼の背中に必死に手を回し、その強固な身体を強く抱きしめ返した。これが最初で最後。もう二度と、この温もりに触れることはない。いつものように遠慮して拒絶してしまえば、この夢のような時間はあっという間に終わってしまうから。
「ありがとう……今度こそ、君を絶対に離さない」
「うん……離さないで……っ」
それは、鼓動がうるさいほどに響く、長い長い抱擁と口づけだった。こればかりは幻なんかじゃないと、私の唇に残る熱が、彼に抱きしめられた体温が、爽やかな彼の香りが、私を確かに確信させた。今だけは、彼は私のものだ。
完璧な既成事実と、逃れられない約束。
夕闇が二人の影を一つに溶かしていく中、レオンハルト様の琥珀色の瞳が、満足そうに、そして底知れない歪な歓喜に歪んだ。
(……これで、もうすぐ正式な婚約者が誕生する。私は、その残酷なお披露目の場には居たくない)
私は彼の腕の中で、切なく愛を囁き返しながらも、頭の片隅では冷徹に、この完璧な侯爵家の包囲網を崩して「東部へ夜逃げする」ための最終算段を、急ピッチで進めなければならないと決意していた。
すべてがレオンハルト様の完璧な掌の上(シナリオ通り)で動いているとは、夢にも思わずに──。




