落日の庭園、深まる誤解のロンド
東部へ逃げるための算段をつけ始めてから、私は現実的な問題に直面していた。元々私の手持ちの荷物は少ない。夜逃げの準備などすぐにまとめることができる。
問題は、金銭だ。
東部はこのヴァルツァー領から遥か遠く離れている。馬車代だけでなく、向こうでの宿代や生活費を考えれば、それなりのまとまった金がいる。医師不足の地とはいえ、すぐに働き口が見つかる保証はない。最初の給与が出るまでの最低一ヶ月、文字通り路頭に迷うことなく食べていけるだけの貯えが必要だった。
しかし、実家で虐げられてきた私には、貴族のくせに宝石の一つもなく、ドレスも数えるほどしかない。私に換金できる価値のあるものといえば……あの雨の夜、レオンハルト様が貸してくださった、あの極上の上着くらいだ。
(だけど……あれだけは、絶対に手放したくない……)
せめて、あの王城の夜、彼にプロポーズを受けたあの夢のような思い出だけは、私のものとしてあの世まで持っていきたかった。浅ましい独占欲だと自嘲しながらも、私はそれをクローゼットの奥に大切に隠し持っていた。
だからといって、この監視の厳しい侯爵家にいる以上、どこかに働きに出て金を稼ぐことなどできるわけがない。花嫁修業は医療実習だけではなく、次期侯爵夫人としての座学も増えていた。侯爵家が総括している慈善施設や提携している商人、友好的な貴族の家系図――覚えるべきことは膨大で、この広大な敷地から馬車なしで飛び出すことも、時間的・物理的に容易ではなかった。
そんな鬱屈とした日々の中、私は今日もエリシアの部屋に入り、彼女のきらびやかなドレスを身にまとった。
(このドレスを一枚でも売り払えば、逃走資金なんてあっさり解決するのに……)
そんな皮肉なことを考えながら、私は「完璧なエリシア」として今日の実習もそつなく乗り越えた。
――しかし、その直後に綻びは生まれた。
エリシアからきつく言われていた「レオンハルト様にベタベタ触るな」という指示を忠実に守り、私が彼と一定の距離を保っていたせいで、彼の鋭い観察眼が即座に違和感を察知したのだ。
「……おや。本日は僕に抱き着いてこないのですね、エリシア」
ギクッとして肩を跳ね上がらせたのは、私ではなく、私の後ろで「偽アリア」として控えていたエリシアだった。
私はだから言ったでしょう、と言わんばかりに冷ややかな視線を妹へと送った。侯爵家の、あのレオンハルト様の観察眼を侮っているからこんなことになるのだ。ここで不審に思われて入れ替わりが露見すれば、実家に強制送還される。私はこの綻びを繋ぎ合わせるため、即座にエリシアの仮面を深く被り直し、彼へとすり寄るしかなかった。
「押してダメなら、引いてみろ、という言葉がありますでしょう? わたくしが少し離れたからって……ふふ、寂しがってくださいましたの?」
私は彼にすり寄るように一歩、距離を詰めた。エリシアの命令通り、決して彼に直接肌を触れさせることはしなかったが、精一杯、声音と上目遣いで「可愛く焦らすエリシア」を演じ切ってみせる。
「――そうですね」
そう答えた途端、レオンハルト様が、私の躊躇いを見抜いたように迷いのない手つきで、私の細い手首を掴んだ。
「あっ……」
驚いて顔を上げると、彼はいつもの、完璧に整った王子様のような作り笑顔を浮かべて私を見下ろしていた。その琥珀色の瞳の奥に、ぞっとするほど熱い光が灯っている。
「どうです? 久しぶりに、二人で庭園を散策しませんか。僕の、愛しい婚約者殿」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、今まで抑え込んできたドス黒い感情がふつふつと湧き上がった。
いつもなら、私から全てを奪い取ってきたエリシアが、私の背後で「レオンハルト様にまとわりつき、私を嘲笑う不敵な笑み」を浮かべていたはずのシチュエーションだ。
こんなことを思っても惨めになるだけ。今までの恨みが消えるわけでもない。
けれど、生まれて初めて、エリシアからレオンハルト様という『至宝』をその手から奪い取ったのだという邪悪な悦びが、私の胸を満たした。それは演技ではなく、私の本心からの、エリシアへの宣戦布告(仕返し)だった。
私は背後のエリシアを振り返り、勝ち誇ったようにくすりと妖艶に微笑んでみせた。そして、レオンハルト様の手を、今度は私の方から強く、指を絡めるようにして握り返したのだ。彼の逞しい腕に、甘えるようにコツンと頭を傾け、彼の誘いに応じる。
「嬉しいですわ、レオンハルト様。もちろん、ご一緒させてください」
アリアの地味な仮面を被ったエリシアは、その光景を目の当たりにして、屈辱と嫉妬で顔を歪め、目から大粒の涙を溢れさせていた。
「酷い……っ」という彼女の小さな、 惨めな呟きが聞こえる。
(痛快だわ……。エリシア、いつも私から奪うばかりだった貴女が、どんな顔をしているかしら)
一瞬だけ、胸がすくような最高の快感が突き抜けた。
けれど、そんな私のささやかな勝利の喜びは、すぐに冷酷な現実によって打ち砕かれる。
レオンハルト様は、涙を流して傷ついている「偽アリア(エリシア)」に一瞥もくれることなく、ただ冷然と彼女をその場に置き去りにして、私の手を引いて歩き出したのだ。
あんなに泣いているアリア(の姿をしたエリシア)を、彼は心配すらしない。
胸の奥が、急速に凍りついていくのを感じた。
(ああ、そうか……。やっぱり、彼にとって『アリア』なんて、その程度でしかないのね……)
彼にとっては、医療の才能もなく、実績もエリシアに奪われ、友人たちにも顔向けできないような日陰者の『アリア』なんて、泣いていようが傷ついていようが、どうでもいい存在なのだ。彼が愛し、気遣い、こうして手を引いて歩くのは、どこまでも「グレインフィール家の才女・エリシア」という記号だけ。
彼の手の温もりが、今の私には酷く冷たく感じられた。
ひと時の復讐劇に酔いしれた自分を激しく呪いながら、私は彼の隣でエリシアの仮面を被り直し、美しく咲き誇る、けれど出口のない迷路のような庭園へと足を踏み入れるのだった。




