理不尽な鉄槌、そして手に入れた命綱
命を削るような緊張の実習が終わると、私はエリシアに手を引かれ、隠れるようにして彼女の部屋へと駆け込んだ。鍵を閉め、互いの衣装を脱ぎ捨てて本来の姿へと戻りながら、私はどっと押し寄せた疲労感に眩暈を覚えた。
(あんな……男性に自ら身体を寄せて甘えるなんて、淑女にあるまじき破廉恥な行為だわ。思い出すだけで頭が沸騰しそう……っ)
だが、首尾は上々だったはずだ。私は「偽エリシア」として完璧な注射捌きを披露し、レオンハルト様との仲を実質的に深めてみせた。これで侯爵家における「エリシアの評価」は跳ね上がったはずである。
対して、私を装っていたエリシアは、大人しくしているだけのはずが、移動時のちょっとした所作の端々に不手際が目立っていた。すべては彼女の発案であり、作戦通りに私が泥を被ってあげたはずなのに、当の本人はドレスの紐を乱暴に引っ張りながら、不満たらたらで私を睨みつけてきた。
「貴女、レオンハルト様と距離が近すぎるんじゃない!? いくら私のフリをしているからって、調子に乗ってベタベタ触らないで頂戴! 少しは離れなさいよ!!」
また、そんな無理難題を。実習中の私は「傲慢で男好きなエリシア」を演じているのだ。急に態度を変えて余所余所しくなれば、それこそあの恐るべき観察眼を持つレオンハルト様に、一瞬で入れ替わりの嘘が見破られてしまう。
「それなら、もう入れ替わりなんてやめましょう……。そんな、日によって人が変わったようになってしまったら、小侯爵様にすぐに気づかれてしまうわ。もう充分でしょう? 明日からは普通に貴女が実習を受けて――」
「――口答えしないで!!」
パキィン、と激しい破裂音が部屋に響いた。
私の言葉を遮るように、エリシアの手元にあった厚みのある医学書が、凄まじい勢いで私の頭上へと投げつけられたのだ。
「キャァッ!」
とっさに両腕で頭を庇ったものの、本は私の細い腕を強打し、その衝撃で私は床に無様に尻もちをついた。自分で巻いていただいた包帯の奥、まだ治りきっていない打撲痕に鋭い激痛が走り、視界がチカチカと明滅する。
「貴女は私の身代わり人形のくせに、偉そうに意見するんじゃないわよ!」
鬼の形相で私を見下ろすエリシア。私はこれ以上彼女を逆撫ですれば、実習どころか命の危険すらあると思い、痛む腕を抱きしめたまま「……わかったわ」と静かに俯くしかなかった。
「着替えたら、用済みなんだから早く出て行ってよね! これから私、レオンハルト様と夜のパーティーにいくんだから!」
「え……?」
衝撃の言葉に、私は床にへたり込んだまま驚いて目を見開いた。
「私は医学でも才を示したのよ? だからレオンハルト様が、私をエスコートして、社交界で『婚約者』のお披露目してくださるの! 貴女みたいな日陰者の出番なんて、1ミリもお呼びじゃないんだから」
(あのお茶会は……やっぱり、そのための根回しだったのね。二人は、着実に、私が入り込めない場所で仲を深めている……)
胸の奥が、ズキリと音を立てて血を流す。
嘘の仮面を被って彼に触れ、彼に微笑んでもらって一瞬でも浮ついてしまった自分が、たまらなく惨めで愚かだった。二人がきらびやかな夜会で寄り添い合う姿なんて、今の私が見たら、今度こそ完全に心が壊れてしまう。
早々に着替えを済ませ、逃げるように彼女の部屋を飛び出した私は、狂ったように書庫へと向かった。
痛む腕を引きずりながら、まだ見ぬ本を開き、棚の奥に眠っていた新聞の束を必死に漁る。
願っていたのは、この息の詰まる地獄のような貴族社会を飛び出るための、たった一枚の切符。
一度は平民の村医師として泥に塗れて生きてこられたのだ。何の未練もない。今の私なら、また誰も知らない新しい土地で、一人の平民として静かに生きていける。
そうして、埃を被った古い新聞の束の、一番底を捲った時だった。
『──東部国境沿いの診療所にて、常駐の医師を急募。身分不問──』
「……っ、良かった。とうとう、見つけたわ……!」
私は震える手で、その地方新聞に掲載されていた小さな求人広告を見つけ出した。涙で霞む目を擦りながら、インクと紙を取り出し、募集要項と連絡先を必死に紙へと書き写していく。
これが、私の最後の命綱。
これさえあれば、何があっても私はこの場所から逃げられる。
侯爵家へと花嫁修業にやってきてから、早くも三ヶ月が経とうとしていた。
そろそろこの長い茶番劇も終了を迎え、レオンハルト様が正式な婚約者──すなわち、私の実績をすべて手に入れたエリシア──をお決めになってもおかしくはない時期だ。
(レオンハルト様はすでに婚約者をお決めになっている。私がこの屋敷を去っても問題はないはずだ。実家に連れ戻される前に東部へ逃げて、今度こそ平民の医者として死ぬまで生きるのよ)
インクが滲む求人票の控えを、ドレスの胸元の奥へと大切にしまい込みながら、私は心の中で静かに、けれど絶対の覚悟を決めていた。
恋い慕ってしまったあの人の隣にいる資格がないのなら、せめて彼らの邪魔になる前に、跡形もなく消え去ろうと──。




