仮面の診察、入れ替わりの双子と主治医の愉悦
昨日の落日の東屋での絶望から一夜明け、私の心は完全に冷え切っていた。早くここから身を引かなくては――そう固く決意していた、翌日の花嫁修業の実習直前のことである。
突然、自室に押し入ってきたエリシアが、私の腕を掴んで激しく揺さぶってきた。
「アリア! 今日は特別に、私の名前を貸してあげる! 今日から、貴女が『エリシア』として実習をこなしなさい!」
「……いったい、貴方は何を言っているの?」
あまりの無茶苦茶な提案に、私は絶望を通り越して言葉を失った。しかし、彼女は私の肩が外れそうなほどの力で拘束し、血走った目で離さない。
「私の評価を上げないと、レオンハルト様との婚約が危ういのよ! いつまでたっても、貴女みたいな地味な女の評価ばかり上がって、私に恩恵がないなんてどういうことよ!」
「で、でも……そんなことをしなくても、小侯爵様は貴方を選んでいるじゃない……。それにいくら双子とはいえ、そんな嘘すぐにバレてしまうわ。この間だって貴方の嘘にすぐ気づいて、お叱りを受ける羽目になったのを忘れたの?」
私は至極真っ当な理由を突きつける。
「そんな場当たり的なことをして、私が『エリシア』として完璧にこなしたとして……その後、貴女がこの実務を一人で遂行できなければ、結局はボロが出るだけよ。この場を凌いで、一体何になるというの?」
「今度は完璧にやるわよ!! それに、私にはグレイス先生がいるんだから、何とかなるわよ! 今は少しでも可能性を上げるために、医学でも侯爵家に認められたいの! それとも何……貴女、まさか自分が侯爵家に嫁げる気でいるの?」
「――っ」
エリシアの棘のある言葉が、昨日の傷口を深く抉る。そんなわけない。私は平民に身を落としていた、実績も何もないただの汚れ役。レオンハルト様が選んだのは、私の実績を纏った「綺麗なエリシア」だ。
もしここでエリシアが不始末を犯して婚約が白紙に戻れば、二人揃って実家(あの地獄)に戻され、今度こそ私はどんな目に遭わされるか分からない。私は痛む胸の奥で深く溜息を飲み込み、エリシアとして今日一日の業務を請け負う覚意をした。
(いいわ。実家が社交界に触れ回っている『医学の才女・エリシア』の虚飾を、今日だけは私が本物の技術で埋めてあげる。そうして、彼女が侯爵家に認められれば、私は役目を終えて消えることができる……!)
そうして私達は、互いの衣装を入れ替えて実習室へと登場した。
これまでの実家での過酷な環境で培った「気配を消す演技」をふんだんに活用し、エリシアは私を装って、じっと俯く大人しい令嬢になりきっている。
ならば、私は開き直るしかない。持ち前の観察力で、これまでのエリシアの「傲慢で、男好きな態度」をトレースしつつ、彼女の名誉挽回のために最高の実績を残してみせるわ……っ!
本日の実習で姿を現したレオンハルト様は、いつものように純白の白衣を身にまとっていた。
その麗しい姿を見た途端、昨夜の(夢だと自分に言い聞かせている)キスの熱が蘇り、心臓が爆発しそうになる。
頭を抱えたい衝動を必死に抑え、私は「エリシア」のフリをして、精一杯の作り笑いを浮かべてお辞儀をした。
「れ……レオンハルト様、本日もどうぞよろしくお願いいたします❤」
私が「レオンハルト様」と呼んだ瞬間、彼の美しい眉がピクリと動いた。
その鋭い瞳が、エリシアの皮を被った私の方へと、真っ直ぐに向けられる。
「ワタクシ、今日の実習をとても楽しみにしておりましたのよ。しっかり予習してきましたから、ご期待に添えると思いますわ」
ここで躊躇したら、あの恐るべき観察眼を持つレオンハルト様にはすぐにバレてしまう。私は覚悟を決め、これまでのエリシアを真似て、無礼にも彼の右腕をギュッと掴み、胸を押し当てるようにして、必死の上目遣いで甘えてみせた。
(っ……心臓が痛い、恥ずかしさで死んでしまいそう……っ!)
対するエリシアの演技も完璧だった。彼女はその背後で、私がよくやるようにペコリと綺麗にお辞儀をして見せ、控えめな声で「小侯爵様、よろしくお願いいたします」と言ったのだ。
レオンハルト様は、一瞬だけ、後ろの「偽アリア(エリシア)」に冷徹な視線を向け――それからすぐに、腕を絡めている「偽エリシア(私)」の瞳を、射抜くように凝視したまま動かなくなった。
その琥珀色の瞳の奥に、いつも私に向ける無邪気さはなく、何かを企むような、昏い愉悦の色が浮かんでいる。背中にゾクッと悪寒のような冷ややかさが突き抜けた。
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
(あ、あれ……?いつもなら塩対応なのに……。私が知らないだけで二人の距離はやはり縮まっていたんだわ)
私は様子を確認するために、彼をまっすぐ見つめていた。その表情は、どこか酷く愉しげに弾んでいて読めない。私は彼の右腕をつかみ、愛おしそうに頭を預けた。
「まぁ、今日は腕を振り払わないのですね。嬉しいですわ……! さっそく予習の成果を見せたいのですが、注射を打たせていただけませんか?」
「いいですよ。君の頼みなら、何だって」
彼は私の作り笑顔をじっと見つめながら、困惑するどころか、極めてスムーズに白衣の袖を捲り上げ、無防備にその美しい右腕を差し出してきた。
(よし。ここでエリシアとしての完璧な手際を見せて、侯爵家に認めさせるのよ……!)
私は「グレインフィール家の才女・エリシア」としての誇り高き仮面を作り出した。
注射器を手にし、一切の迷いがない神速の手際でアルコール消毒を施すと、ミリ単位の狂いもない完璧な角度で、彼の腕に針を滑り込ませていた。薬液を注入する速度も、彼の血管壁に負担をかけない完全な等速。
天才村医師としての私の最高の技術。それを、今だけはすべて「エリシアの功績」として彼の前に差し出した。
完璧な注射捌きを終え、私は彼の前で満面の笑みで微笑んだ。
「いかがですか? これくらい、わたくしにもできましてよ……。グレインフィール家の才女としての名誉、これで少しは挽回できましたかしら?」
レオンハルト様は差し出した腕をそのままに、声を立てずにクスクスと肩を揺らして笑っていた。その顔は、極上の獲物を罠にハメた肉食獣そのものの笑みだった。
注射器の扱い方、指先の繊細なタッチ、そして完璧な手際。目の前でエリシアのフリをしているこの少女が、自分の最愛の「本物」であると完全に確信しながら、彼は愛おしそうに目を細めた。
「ええ。大変良くできましたね。これほど見事な技術を持つ君を、ヴァルツァー家は絶対に手放したくないと改めて確信したよ」
その言葉の「エリシア」という名に、彼がどれほど深い含みを持たせているのか、私はまだ気づかない。
(良かった……! これでエリシアの顔を立てることができたわ……!)
互いに巨大な違和感(と、彼側の確信犯的な愉悦)を孕みながら、地獄の「入れ替わり実習」の幕が開く。私は内心でホッと溜息をつきながら、この底知れない侯爵令息のゲームに、エリシアとして挑み続けるのだった。




