落日の東屋、擦り切れた希望
次の日の朝。私は微熱を孕んだような気怠さの中で目を覚ました。
いつの間に眠ってしまったのだろう。虚ろな意識のなかで真っ先に蘇ってきたのは、昨夜の、あまりにも甘美で狂おしい「記憶」だった。
途端に顔がカッと熱くなり、心臓が痛いほど跳ね上がる。私は枕に顔を埋めて、悲鳴を押し殺した。
(わ、私は……よりによって、妹の婚約者様を相手に、なんて破廉恥で身の程知らずな夢を……ッ!)
夢は抑圧された願望の表れだという。私は、あの高貴で完璧なレオンハルト様に、あんな邪な思いを向けていたのだろうか。
妹との仲を取り持つという姉の役割を放棄し、エリシアのマナー違反や医学知識のなさに心のどこかで安堵し、あわよくば彼を奪いたいと、そんな浅ましいことを密かに願っていたというの?
ふと、自分の腕に目をやる。そこには、やけに綺麗に巻かれた包帯があった。唇を指先でなぞると、まだあの熱い感触が残っているような錯覚に陥る。
(包帯も、結局は夜中に自分で巻き直したのかしら。……でも、どうしてあんなにリアルな夢を見たの? まるで、本当に私たちが両想いであるかのような……。――あ、あるわけない。そんな都合のいい奇跡なんて、私の人生に起こるはずがないのに)
夢と現実の狭間で悶えながら、私は自分の愚かさに激しい嫌悪感を抱いた。
一瞬でも「あれが現実だったら」と思ってしまった自分が、たまらなく惨めで恥ずかしい。
昨日、私はセレナ様に「この縁談から身を引きたい」とはっきりと伝えたばかりだ。ここに来る前の顔合わせでも、自分の社交界での悪評を並べ、分不相応だと公言した。それなのに今更どの面を下げて「本当は貴方が好きでした」などと言えるというのだろう。
幸か不幸か、今日は私の怪我(頭皮の炎症と腕の打撲)を理由に、予定されていた花嫁修業はすべてお休みとなった。
私は自分の浅ましさのせいでレオンハルト様と顔を合わせる勇気が出ず、朝食の給仕も断って、ただ一人部屋に引きこもっていた。
けれど、狭い部屋にいると、昨夜の彼の低い声や、肌のぬくもりが何度もフラッシュバックして頭がおかしくなりそうになる。
逃げるように部屋を飛び出した私は、お昼に差し掛かろうとした頃、侯爵家の広大な書庫へと向かった。
(……探さなきゃ。ここではない、どこか遠くへ行くための手段を)
片っ端から古い医療書を手に取り、貪るようにページをめくる。かつて実家の本棚で、奇跡のように1枚の嘆願書(村医師の求人票)を見つけたように、この膨大な蔵書の中にも、私を必要としてくれる新しい働き口が挟まっているのではないか――そんな、藁にもすがるような一抹の期待を込めて。
しかし、何十冊読み進めても、ただの古い羊皮紙や、色褪せた栞が挟まっているだけだった。
「駄目だわ……。そう簡単には見つからない……」
パサリ、と重い本を閉じる。文字の追いすぎで視界が歪む。目的のものは何一つ見つからず、私は力なく肩を落として、自分の部屋へと引き返そうと長い回廊を歩いた。
その途中、何気なく回廊の窓から、陽光の降り注ぐ侯爵家の美しい庭園を見下ろした時のことだった。
昼の眩しい日差しに照らされ、みずみずしい植物が咲き誇るその奥――白亜の東屋のなかに、私は「それ」を見つけてしまい、完全に足を止めた。
そこには、楽しげに微笑み合いながら、お茶とお菓子を片手に語り合う、エリシアとレオンハルト様の姿があった。
さらに奥には、レオンハルト様のご友人らしき、身なりの良い二人の貴族の紳士が同席している。エリシアは、昨日までの無礼が嘘のように、その紳士たちに愛想良く微笑みかけていた。
「あっ……」
喉の奥から、乾いた声が漏れた。
同席している二人の紳士のうち、片方の顔に、私は強烈に見覚えがあったのだ。
ノア・フェリクス・リーヴェル。
――私があの家を出て、平民の村医師として泥に塗れて這いつくばっていた5年間、確かに何度も顔を合わせていた辺境伯令息。そして、私が実家に連れ戻され、地獄のような社交界デビューを果たした際にも、私があの「村医者のリア」であると瞬時に見抜き、声をかけてくれた人物。
彼が、レオンハルト様のご友人だったなんて。
その事実を理解した瞬間、私の頭のなかは真っ白なパニックに染まった。
(……知られていた。よりにもよって、一番知られたくなかったレオンハルト様に……っ!)
私が5年間にわたり、高貴な令嬢としての身分を失い、平民として暮らしていたという決定的な事実。ヴァルツァー家という雲の上の名門が、その過去を突き止めないはずがなかったのだ。ノア様がここにいるということは、私の過去のすべてが、すでにレオンハルト様の耳に入っているという証拠に他ならない。
胸の奥を、剥き出しの刃物で何度も抉られるような激痛が走る。視界が急速に涙で遮られていく。
(ああ、だから……。だから私はそこ(お茶会)に呼ばれなかったのね……)
遠くから、回廊ですれ違った使用人たちの囁き声が断片的に聞こえてくる。
「小侯爵様が、わざわざご友人方を招かれて……」「……グレインフィール伯爵家の令嬢を、社交界へ正式に紹介するための根回しを……」
私は耳を塞ぎ、逃げるようにその場から走り去った。冷たい自室の扉を閉め、鍵をかけ、シーツに縋り付くようにしてベッドの上に崩れ落ちる。
「うっ……、ううっ……、あ……っ……」
心臓が、張り裂けそうなほど痛い。目からとめどなく涙が溢れて、シーツを黒く汚していく。
なおも私は、往生際悪く「都合の良い言い訳」を探そうとしていた。
『私が怪我をしているから、今日はお披露目のお茶会に呼んでもらえなかっただけじゃないか』と。……そんなわけ、ないのに。お茶を飲むくらい、昨日の夜だって問題なくできていた。怪我なんて、ただの体裁の良い理由に過ぎない。
もう、認めなければならなかった。
どれだけ淑女としてのマナーがなかろうと、私が積み上げてきた「医師としての功績」は、今や全てグレイスの手によって『エリシアのもの』として社交界に発信されている。レオンハルト様が求めているのは、その輝かしい実績を持つ「グレインフィール家の才女」なのだ。今更、社交界の嫌われ者である私が「それは私の実績です」と叫んだところで、誰も信じるはずがない。
昨夜のあの甘い時間は、やっぱり、醜い私が都合よく見ただけのただの夢。
天国から、一瞬で真っ暗な地獄へと突き落とされた気分だった。
「……私は、もう、ここにいてはいけない……」
声を殺して泣きながら、私は固く拳を握りしめた。
あの東屋での穏やかな光景こそが、揺るぎない現実。レオンハルト様はもう、生涯の伴侶として、私の功績を纏ったエリシアを選び、そのための準備を進めているのだから。
これ以上、この場所にいて彼の邪魔をしてはいけない。私のなかに芽生えてしまった、この身の程知らずで切ない恋心を完全に封じ込めるためにも――私は一刻も早く、このお屋敷から身を引かなくてはならないと、涙の海のなかで固く決意するのだった。




