真夜中の回診、甘美なる処方箋
セレナ様との濃密な医療お茶会が終わり、自室に戻った私は、実家では考えられないほどふかふかのベッドに横たわっていた。
侯爵家の熟練の使用人たちは、炎症した私の頭皮と腕の包帯を一度優しく解き、至高の手際で湯あみを手伝ってくれた。
頭皮の赤みは引き、妹の暴力に、お茶会でのマナー違反、そしてセレナ様とレオンハルト様との緊迫したお茶会に五感をフル回転させた私は、すっかり心地よい疲労感に包まれていた。
(侯爵夫人、本当に優しくて素敵な方だったなぁ。侯爵家は本当に凄い。治療から湯あみまで洗練されているわ。……でも、この極上のサービスを、次期侯爵夫人でもない自分がいつまでも受けていていいのかしら? 早くこの花嫁修業からフェイドアウトして、新しい村で働き口を探さなきゃ……)
そんなことを考えながら、すっかり安心しきってパジャマ姿でくつろいでいた。
私はベッドの上に起き上がり、自分の腕に新たにステロイド軟膏を塗り、包帯を巻き直そうと医療キットを取り出した。その時だった。
コンコン、と静かに部屋の扉がノックされる。
突然の真夜中の訪問。
「…………はい」
もしかしたら、エリシアがまた今日の自分の不始末をヒステリックに私にぶつけにきたのだろうか。実家のトラウマがよぎり、若干の恐怖から返事が遅れてしまう。
「僕だよ、アリア。夜分遅くにすまないね」
だが、扉の向こうから聞こえてきたのは、レオンハルト様だった。いつもより少し低くて、夜の静寂に溶け込むような甘い声音。
「しょ、小侯爵様!? も、申し訳ありません。ただ今!」
慌ててベッドから飛び出し、身なりを整えて扉を開けた瞬間――私の心臓は、ストレスとは全く違う、暴力的なまでの理由で激しく跳ね上がることになった。
「遅くなり、申し訳ありま――」
そこに立っていたのは、いつもの完璧に髪を整えた堅物の侯爵令息ではなかった。
前髪は無造作にハラリと下ろされ、いつもより少し幼く、けれど格段に大人の男の色気が増している。衣服も上着を脱いだラフなシルクの部屋着で、あろうことか、少し開いた胸元から、白く逞しい鎖骨と胸筋のラインが覗いていた。湯上がりの私に、夜のラフなレオンハルト様。
(な……ッ!? ギャップ!! 破壊力抜群のギャップの暴力が押し寄せてきたわ……っ!?)
昼間の「天才ドクターであり、侯爵家の鉄面皮」はどこへ行ったのか。完全に生身の「一人の男」としての強烈なフェロモンを全方位に撒き散らしているレオンハルト様は、私の腕の打撲痕を視認した瞬間、琥珀の瞳を鋭く光らせ、極めて自然に室内に滑り込んできた。
「まさか……こんなに酷く殴られていたなんて。……早く手当てを」
「あ……キャァッ!?」
抗う間もなかった。彼は私の腰を軽々とすくい上げると、そのままお姫様抱きで奥のベッドへと私を座らせた。至近距離から香る彼の匂いに、私の頭皮まで一気に熱くなる。
「しょ、小侯爵様! もう痛みはないので、手当ては自分で……っ! 昼間に侯爵夫人に処置していただき、経過は極めて良好で、制酸作用の胃薬が必要ないくらい、もうどこも痛みはありませんから……っ!」
「困った患者さんだ……。医者の言うことは素直に聞くべきですよ。包帯の巻き直しと、経過観察は僕の特権です。大人しくしていてください」
必死に首を横に振って拒絶する私を見て、レオンハルト様は瞳を少しだけ細め、いつになく真面目な、そしてどこか哀愁を帯びた顔になった。
彼はベッドの横に膝をつき、用意したステロイドを指先に取り、私の腕に塗り、包帯を巻いていく。その無駄のない指先の動きに隙がなさすぎて、断るタイミングを完全に失ってしまった。
彼の熱い視線が私の腕を、そして頭皮をも捉え、丁寧に、丁寧に塗り薬を塗っていく。……いや、それにしても塗り過ぎでしょ!?
「あ、あの……しょ、小侯爵様、そんなに厚塗りをしなくても……」
「打撲を舐めてはいけませんよ。時間と共に組織液が滲出して悪化したり、腫れ上がったりしたらどうするのです? また同じところを打ち付けて変形してしまったら、この程度じゃ済まないんですよ」
「フフフ……あ、大変失礼いたしました。私も医者の端くれですから、そうなる前に回復にしっかり専念しますよ」
最初に出会った時から薄々思っていたが、この人の診断は、最悪の重症患者を前にした時のような見事なまでの「過保護っぷり」だ。毎度毎度、打撲一箇所に対して世紀末レベルの最悪ケースを想定して診察を行っているのだろうか。あの出会いの時と違うのは、私がこの人の正体を知って、医学的な知見からまともな反論を言えなくなってしまったことぐらいだろうか。だって、至近距離にいる彼の顔が、良すぎて、男らしくて、直視できないのだ。
「大人しくてよろしい。……ここで待っていてください。副交感神経を刺激し、リラックスして眠れるように、僕が調合したハーブティーをお持ちしますね」
「いえ、そんなお手を煩わせるわけには……! 皆さんが良くしてくださって、もう腫れという腫れもないですし、そもそも私は、貴方にここまで良くしていただける資格なんてない身分で――」
「アリア」
遮るように名前を呼ばれた瞬間、世界が反転した。
私の身体は、ベッドの上に押し込まれるような形で、彼の長い両腕の中に完全に閉じ込められていた。
背中に沈み込む柔らかなマットレスの感触。そして目の前には、潤んだ瞳で私を真っ直ぐに見つめる、完全に余裕を無くしたレオンハルト様の顔。
「っ……、小、侯爵、様……?」
「……アリア。君はまた、そうやって僕から距離を置こうとする。お願いだ、僕を突き離そうなどとしないでくれ……」
レオンハルト様は私の小さな右手を取り、おもむろにそれを、自分の部屋着の胸元の奥――左胸のあたりへと、力強く押し当てた。
ドクン! ドクン! ドクン! ドクン!
手のひらを通じてダイレクトに伝わってきたのは、耳が痛くなるほどの、凄まじい速さで脈打つ「心臓の鼓動」だった。
その音を聞いて、私自身の心臓も爆発しそうに跳ね上がる。目の前で危険な色香を漂わせる彼の姿、肌の重なる感触、私よりも明らかに大きくて逞しい、少し高い体温を感じて、それだけで私は指先一つ動かせないまま固まっていた。
「聴こえるかい? 君が『資格がない』などと自分を否定するたびに、僕の心臓は死にそうになる。君を実家に帰すくらいなら、僕は今すぐ医師免許を返上して、君を連れて地の果てまで逃亡するよ」
「な……っ、何を……」
彼の、狂気とも取れるほどのあまりにも純粋な執着。
いつもは「天才ドクター」として私を引っ張ってくれる彼が、今、私の前で、一人の「余裕のない男」として呼吸を乱している。その事実が、私の心の防壁を跡形もなく粉砕していった。
私がその熱量に圧倒され、ただ見つめ返すことしかできずにいると――レオンハルト様は、ふっと妖艶に微笑んだ。
「……自分を傷つける悪い口には、強力な『処方箋』が必要だね」
「え? 処方――っ!?」
次の瞬間、私の視界が彼の端正な容姿で埋め尽くされた。
唇に触れたのは、柔らかくて、けれど驚くほど熱い、確かな体温。
「ん……っ」
甘やかで、息ができなくなるほどの深い、初めてのキス。
レオンハルト様の大きな手が私の髪に滑り込み、逃がさないように優しく固定される。触れ合う唇から、彼の激しい動悸がそのまま私の中へと流れ込んでくるかのようだった。
ほんの数秒、それとも永遠のような時間の後、ゆっくりと唇が離される。
レオンハルト様は、赤くなった私の唇を親指でそっとなぞりながら、大人の男の笑みを浮かべて囁いた。
「これが僕からの『お薬』だ。これでもまだ、自分には資格がないなんて言うかい?」
「あ……、う、あ……」
私の脳内医学辞典は、完全に灰と化して消し飛んだ。
パニックのなかで「いまの接触による脳内エンドルフィンの分泌量は……」と計算しようとするも、至近距離で見つめてくる彼の瞳のせいで、思考が一切まとまらない。
心臓のパルピテーション(動悸)が、シーツ越しに響き合う。
私は顔をこれ以上ないほど真っ赤に染めたまま、ただただ彼を一人の「男」として、深く、深く心に刻み込まされるのだった。




