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運命だと思っていた相手は、妹の婚約者でした  作者: Aro Aiura


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可憐なる籠の鳥

セレナ様の迅速かつ的確な応急処置が終わり、私の腕には綺麗な弾性包帯が巻かれた。その後は、打って変わって穏やかな医療談義に花が咲く。私たちが生まれる前、グレインフィール領で発生した伝染病の変遷や、セレナ様がこの屋敷に嫁入りし、一国の名医として大成するまでの苦労話など、どれも興味深いものばかりだった。


「ありがとうございます、侯爵夫人。先ほどの痛みが嘘のようです……。私も、夫人のような立派な医師になれたら良いのですが」


「フフフ……。本当に謙虚で可愛い子ね。貴女なら絶対になれるわよ」


新しく淹れ直されたお茶からは、果実の甘い香りが優しく立ち上っている。今度は目の前で、セレナ様がすっと優雅にカップを傾け、お茶を楽しんでいく姿を確認できて、私はようやくホッと胸を撫で下ろした。


エリシアが巻き起こした数々の無礼は使用人たちの手によって早々に片付けられ、今はもう彼女の姿も、あの不快な咀嚼音も視界に入らない。しかし、偉大な侯爵夫人が真横に座っているというだけで、私の貧弱な心臓は一向に休まらなかった。

本来なら「未来の侯爵夫人候補」として堂々とここにいるはずのエリシアが強制退出させられてしまったのだ。これからこの茶番劇(花嫁修業)はどうなってしまうのだろうと、別の悩みが次から次へと尽きない。


そんな私の困惑と胃の痛みをすべて見透かしたように、セレナ様がカップを置いて悪戯っぽく微笑んだ。


「ねぇ、アリアちゃん。貴女、レオンの名前も身分も知らずに、プロポーズをお受けしたんですって?」


「――ぶっ、は、はいっ!?」


まさかあの恥ずかしすぎるバカ正直な告白が、すでに息をするように母親へと筒抜けになっているとは思わなかった。私は一瞬で顔を真っ赤に染めて縮こまる。レオンハルト様の口の軽さはどうなっているのだ。


「そ、その、小侯爵様には何とお詫びを申し上げたらよいか……! 私の不調法のせいで、天下のヴァルツァー家に大変な恥をかかせてしまい……あの……っ」


「まぁ、謝ることなんて一つもないわよ。すべては名前すら名乗らなかったあの子の不手際(大ポカ)だもの。それにね、私は本当に嬉しいの。我がヴァルツァー家は代々医学に精通しているけれど、その過酷さゆえに現場に女性が立つことはとても稀なのよ。蝶よ花よと育てられた貴族令嬢たちが、あんな血生臭い医療現場に自ら進んで立つことなんて、普通はあり得ないのだから」


女性が医療に携わることの難しさを真摯に語るセレナ様に対し、私はその事実を知らなかったこともあり、気がつけば恐怖を忘れて、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめて反論していた。


「そ、そんな、血生臭いだなんて、滅相もございません……っ! 病に苦しむ人々や、怪我で明日をも知れぬ命を救うのは、これ以上なく崇高で尊いお役目です。決して、そのような忌むべき言葉で片付けられるようなお仕事ではございません!」


私の熱を帯びた言葉に、セレナ様は一瞬目を見張り、それから本当に愛おしそうな、蕩けるような笑みを浮かべた。


「……ふふ、ありがとう、アリアちゃん。あの子には勿体無いくらいの、本当に我が家の家宝(至宝)のような娘ね」


「あっ、申し訳ありません、偉そうなことを……! それに、その、先ほどの妹の失態も重ねてお詫び申し上げます。あの子も、あの子なりに頑張ってはいると思うのですが……そ、その、少し本番には弱い子でして……」


他家を貶めるような発言は淑女としてあるまじきこと。そう思って必死にエリシアをフォローする私だったが、それがどこまで効果を上げているのかは甚だ怪しかった。セレナ様はただ、すべてを解剖するような優しい笑顔でこちらを見ていた。


「ねえ、アリアちゃん。貴方はレオンのことが好きなのでしょう? どうしてそこまで、自分を害する妹を庇うようなことをするの?」


確信を突く質問。やはりこの方も、あのレオンハルト様の母親なのだ。どことなくその涼やかで知性的な容姿も、逃げ道を塞ぐような声音も彼にそっくりで、見つめられると無性に落ち着かない。


「……この場に来ておきながら、このような不敬をお許しください。ですが……私にあの方との縁談など、分不相応でございます」


「どうして、そう思うの……?」


私は自分のこれまでの歩みを思い出し、少し困りながらも、寂しく微笑んだ。


「私には、皆様には顔向けできないような、暗い過去がたくさんあるのです……」


両親から冷遇され、平民の村医師として泥に塗れて過ごした5年間。そして戻ってからも独房に閉じ込められ、貴族としても、人間としても扱われなかった日々。そんな傷物で呪われた私が侯爵夫人となり、今まで完璧な貴族として、そして優秀な医者として育った素敵なレオンハルト様の隣にいることなど許されない。私から身を引かなければ、いつかヴァルツァー家の泥を塗ることになる。


「あの顔合わせの場で、私がこの縁談をきっぱりと断らなかったことをお許しください。今からでも、お暇をいただき……」


私が完全に身を引き、このお屋敷から消え去ろうと頭を下げた、その時だった。

セレナ様は私の両手をそっと、けれど絶対に離さないという強固な力で握り締め、こちらを射抜くように真っ直ぐに見つめてきた。


(――っ! こ、この、逃げ道を完璧に塞ぐような手の取り方、一瞬でゼロになる距離の詰め方……!)


ますますレオンハルト様と同じ遺伝子(捕食者の血筋)を強烈に感じる。「小侯爵様はお母様似なのだわ」などと暢気に観察している場合ではなかった。私は完全に、彼女の可憐で強大な包囲網に囚われている。


「アリアちゃん、貴方、何か国家反逆の前科でも持っているというの?」


「前科ですか? いえ、そのようなことは決して……」


「じゃあ、レオン以外に好きな男がいるとか?」


「と、とんでもありません! ご子息様は、本当に素晴らしいお方です……。社交界で大恥をかいた私を救い出し、あの方は私に、もう一度医療に関わるという夢と希望をくださいました。これ以上ないほど、お慕いし、感謝しております」


「そう。ならよかったわ」


セレナ様は私の腫れていない方の頭を、慈しむように何度も笑顔で撫でてくれた。

私は、自分の本音を打ち明け、ヴァルツァー家に迷惑をかけないよう「お暇(別れ)」を切り出せたことに、どこか悲しくも安堵していた。これで、大人しく実家の独房に戻るか、また別の村で医師をやればいい。


だが、私の頭を撫でるセレナ様の口元は、おぞましいほど綺麗な三日月型に歪んでおり、その喉の奥からはボソボソと、地獄の悪魔のような独白が漏れ出ていた。


(――ふふふ、この子、本当に可愛いわね。自分の境遇を恥じて、家族からの歪んだ刷り込みのせいで、レオンとの婚約を辞退して静かに消え去ろうとしているのね。もう貴方が実家で冷遇されていたことも、村医師として大活躍していたことも、ここに来るまで独房に監禁されていたことも、我が家の情報網で『何月何日に何を食べていたか』まで全て筒抜けだとも知らずに。自分がすでに逃げられない籠の鳥だとも気づかずに、健気に消える準備をしているなんて……。あ義母様、愛おしすぎて脳の血管がはち切れそうだわ。絶対に実家(あの有象無象ども)を更地にしてでも、我が家で終生飼育してあげるからね……!)


「アリアちゃん、お茶が冷めないうちに召し上がれ?」


「は、はい、ありがとうございます……!」


聖母の微笑みを浮かべるセレナ様に促され、私は「自分の本音が受け入れられ、円満に身を引かせてもらえるのだ」と、大きな勘違いをしたまま無邪気に安堵するのだった。

すでに背後に、レオンハルトとセレナ様による「絶対に逃がさない永久監禁(婚姻)包囲網」が、鉄壁の布陣で完成していることにも気づかずに。

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