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運命だと思っていた相手は、妹の婚約者でした  作者: Aro Aiura


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医者の本能、母性の暴走、そして聖母の抱擁

セレナ様は笑い終わると、上品に紅茶に口をつけて席を立った。このままお茶会はお開きになるかと思いきや、それまでエリシアが陣取っていた私の真横のソファーへと流れるように腰を掛けた。


「追い払うのが遅くなってごめんなさいね。さぁ、アリアちゃん、私に頭を見せてちょうだい」


追い払うのが遅くなった……?

頭って、さっきエリシアに髪を引っ張られた頭皮のことを、まだ気にしてくださっていたの?

というか、一国の医療の頂点に立つセレナ様直々に、お茶会の席で診察(頭皮の検分)をしてもらうなんて、あまりにも贅沢を通り越して恐れ多すぎる。


私の貧弱な胃壁は再び裏返り、診察を断る方向にしか思考が働かなかった。


「い、いえ……! そこまでしていただかなくても……自然治癒を待ちますので……!」


しかし、私の必死の制止など、最高位の医師である彼女の耳には届かない。セレナ様は私の髪を驚くほど優しく、ゆっくりとかき分け、エリシアによって赤く炎症を起こした頭皮を、プロの目で一瞬で見極めた。


「……まぁ、こんなに赤くなっているのに、私たちの前で一切痛む素振りを見せないなんて。貴女、我慢強いにも程があるわ。さすが生まれながらの、本物の淑女ね」


「あ、いえ……そんなことは……」


セレナ様は素早く使用人に指示を出し、持ってこさせた氷袋で私の頭を心地よい手際で冷やしてくれる。


「今日の夜からは、使用人にシャンプーやブラッシングは頭皮の炎症部分を徹底的に避けるよう伝えておくわ。安心してちょうだいね」


「あ、ありがとうございます。し、しかし、冷却くらいは自分でできますから、本当に……あっ」


氷袋を自分で持とうと、私が手を伸ばした瞬間だった。

手袋とドレスの袖の隙間から、ほんの少しだけ紫色の皮膚が覗いた。それを、セレナ様の鷹のような医師の目が絶対に見逃さなかった。


「……貴女、ちょっと待ちなさい。その腕の痣は、何?」


「え? 痣ですか? どこに……あっ……!」


慌てて袖を引こうとしたが、すでに遅かった。セレナ様は私の細い手首を驚くほど強固な力で捕らえると、レースの手袋を躊躇なくずり降ろした。

そこに現れたのは、先ほどエリシアが馬乗りになって乱暴に叩き、白く細い私の肌の上で、まるで熟しすぎたバナナのように禍々しく黒紫に腫れ上がった「新鮮な内出血(打撲痕)」だった。


それを見た瞬間、セレナ様の瞳から完全に「お茶目なお義母様」の光が消え、戦場に臨む大名医の顔へと変貌した。


「――すぐに私の往診バッグとステロイド軟膏を持ってきて! 腕は冷やすだけじゃダメね、これほどの組織微小出血なら、弾性包帯にて軽く圧迫固定しないと水疱(水ぶくれ)になるわ!」


「はい、只今――っ!!」


傍に控えていたベテランの使用人が、見たこともないほどの慌てぶりで温室を飛び出していく。

私はパニックになった。先ほどエリシアにやられた暴力の痕跡だ。この場で「これは自分で転んだだけで、妹は関係ありません」と、妹を庇う拙い嘘を紡ごうとした。けれど、先ほどの「エリシアの演技」まで見抜く超絶的な観察眼を前に、喉がヒュッと鳴って言葉が出なくなってしまう。

ここで私が妹の暴力を告発すれば、グレインフィール伯爵家との縁談は完全に破談になり、私は実家に連れ戻されて今度こそ本物の独房に閉じ込められるかもしれない。


「あ、あの……治療なら、自室で、自分でやりますから……っ!」


「静かにしなさい。今の私は『侯爵夫人』ではなく『医者』よ。貴女は怪我人なの。大人しく診られなさい」


完全に医者のスイッチが入ったセレナ様は、私の両手の手袋を剥ぎ取り、他に骨折や腱の損傷、頭頭部に大きなたんこぶ(硬膜外血腫の兆候)がないか、神速の触診を始めた。

マズい。これでは、エリシアから一方的な暴力を振るわれていたことが完全に証明されてしまう。私は実家での「お前のせいで縁談が壊れた!」と両親に怒鳴られる恐怖がフラッシュバックし、全身の血の気が引いて、カタカタと震え出した。


そんな、恐怖で身を縮こまらせ、涙をボロボロとこぼし始めた私を見て――セレナ様は、はっと我に返ったように目を見開いた。


そして、包帯を巻く前の私の身体を、その豊満で温かな胸の中に、ぎゅっと壊れ物を扱うように優しく抱きしめてくれたのだ。


「――大丈夫よ、アリアちゃん。何も怖がることはないわ……。ごめんなさいね、私としたことが、職業病で少し強引すぎたわね」


「え……?」


私は驚いて目を見開いた。

聞こえてきたのは、叱責ではなく、心からの謝罪。鼻をくすぐる爽やかな最高級の石鹸と花の香り。そして、私の背中を大きな温かい手で、子供をあやすようにゆっくりと「大丈夫。大丈夫よ」と何度も撫でてくださる感覚。実の母親からも、こんな風に抱きしめられたことなんて一度もなかったのに。


「侯爵夫人、お持ちいたしました!」


使用人が、大急ぎで重厚な往診バッグと塗り薬を抱えて戻ってきた。

セレナ様は私を抱きしめたまま、その耳元で、レオンハルトと全く同じ、ひどく甘やかで絶対的な誓いを囁いた。


「アリアちゃん。私は、貴女がどんなに傷ついていようが、実家がどんな有様だろうが……貴女をここから追い出したりなんて絶対にしないわ。(むしろ、何が何でも我が家の籍に入ってもらうから。)だから安心して、すべて私に預けてちょうだいね」


その圧倒的な庇護欲と母性に包まれ、私はすっかり借りてきた猫のように大人しくなるしかなかった。


「……はい……」


「ふふ、お利口ね」


セレナ様は愛おしさが爆発したように目を細めると、私の冷えたおでこに、チュッと音を立てて優しいキスを落とした。

レオンハルト様からされる熱烈なものとは違う、深い慈愛に満ちた「母親のキス」だった。


(……あ、頭にキス……!? ヴァルツァー家の人たちは、どうしてこうも隙あらば私の頭部にリップサービス(物理)を施したがるのかしら……っ!?)


恥ずかしさと温かさで頭が茹で上がりそうになりながら、私はセレナ様の完璧な手際で、腕にステロイドを塗られ、綺麗に包帯を巻かれていくのだった。私を傷つけた実家(四人)への、ヴァルツァー家総出の「お掃除作戦」が、さらに苛烈さを増していくことなど、この時の私はまだ知る由もない。

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