粉砕された鉄面皮と、完璧なる処方箋
「――それではお母様、アリア嬢。僕は急ぎの公務がありますので、ここで失礼します。ゆっくりとお茶を楽しんでくださいね」
そう言って、レオンハルト様は名残惜しそうに私の手元に視線を残したまま、静かに温室を退室していかれた。
主賓である彼が席を外したことで、ここからは仕切り直しの「女同士のお茶会」がスタートすることになる。
(あぁ、やっと緊張のガチ医療トークが終わったわ……。これで少しは胃が休まる……)
私はそっと胸を撫でおろした。だが――その安堵は、開始早々、全く別の意味での「凄まじい気苦労」によって一瞬で粉砕されることになる。
レオンハルト様という絶対的なブレーキがいなくなった瞬間、それまで萎縮していたエリシアが、待ってましたと言わんばかりに傲慢な笑みを浮かべて背もたれにドカ座りしたのだ。そして、あろうことか、セレナ様がまだカップに手を付けていないにもかかわらず、自分から先にガシャガシャと下品な音を立ててスプーンを弄び始めたのである。
貴族の淑女として、絶対にやってはならない致命的なマナー違反の波状攻撃。
隣に座る私の胃は、早くも別の理由(身内の恥)でキリキリと痛み出すのだった。
「お義母様! この紅茶、すっごく美味しいですわ!」
対面に座るエリシアは、これ以上ないほどの特大のブリっ子笑顔をセレナ様へ降り注いでいた。
(……侯爵夫人を前にして、不敬。あまりにも不敬すぎる。レオンハルト様がいるのといないのでは雲泥の差だわ)
私の心臓は再びストレスでマッハの悲鳴を上げている。それだけではない。妹はお茶をすするようにズズッと音を立てて飲み、テーブルに並んだ高級なマカロンやスコーンを品性もなく鷲掴みにして口に放り込み始めたのだ。マナーの崩壊っぷりが世紀末すぎて、もはやどこからツッコんでいいのか分からない。
「そう。口に合って良かったわね」
セレナ様は完璧な貴婦人の微笑みを浮かべているが、その目は1ミリも笑っていない。完全に「なんだこの珍獣は」という目でエリシアを観察している。
「はい! あ、お替りお願いします!」
(お、お替り!? もう一気飲みしたの!? 貴女は砂漠から生還した旅人か何かなの!?)
冷や汗が全身から噴き出す。セレナ様が淹れさせた極上の温かな紅茶に、セレナ様ご自身が一切口をつけないあたり、どう見ても内面はドス黒くブチ切れておられる。今すぐに妹の暴走を止めなくては、グレインフィール伯爵家ごと一族郎党、王国の医療界から永久追放(社会的抹殺)されるかもしれない。
「エ、エリシア……っ」
「何よ、アリア。静かにしなさいよ」
「その……一度、咀嚼の手をストップした方がいいんじゃないかな……。あと、お菓子を片手で3個同時にキープするのはやめよう?」
「何言ってるの? 聞きました、お義母様? アリアったら、わたしに意地悪で酷いことばかり言うの。嫉妬かしら、見苦しいわね!」
エリシアが全方位に恥を晒し続けたその瞬間、ついにセレナ様が、持っていた扇子をピシャンと鋭い音を立てて閉じた。温室の空気が一瞬でマイナス四十度になる。
「――エリシア嬢?」
「はいっ、なんでしょうか、お義母様!」
(頼むからこれいじょう罪を重ねないで!!)と私は心の中で一万回叫んだ。
セレナ様は、氷のように冷ややかな、けれど極上の笑みを浮かべてエリシアを見つめた。
「貴女……もうお部屋にお帰りになった方がいいわ」
「え? わたしならまだまだお義母様とお話しできますわ……」
「いいえ。これ以上ここに居られては、ヴァルツァー家の『格』と『衛生基準』が下がりますもの。ねえ?」
有無を言わせぬ絶対王者のオーラ。ここでようやく、エリシアも「あ、わたし、もしかして嫌われてる?」と本能で察したのか、一瞬で顔を青ざめさせた。
「あ、無礼を働き、誠に申し訳ございません! すぐに妹を下がらせます!」
私が立ち上がって深く頭を下げると、エリシアは壊れた人形のようにガタガタと震えながら、案内を申し出た使用人の後ろを這うようにして、逃げるように席を立った。
――さて。嵐は去った。だが、残された私は、地球の終わりを迎えたかのような絶望感でドギマギと震えていた。身内の連帯責任で、私も一緒に解剖(処刑)されるに違いない。
すると、セレナ様がスッと目を細め、わざとらしく冷徹な声を私に投げかけてきたのだ。
「……あら、アリアちゃん? どうしたの、そんなに顔を青ざめさせて」
(ちゃ、ちゃん……!? 逆に怖い! 怒りのボルテージがマックスになって、連帯責任として私をいたぶる直前の前振りに違いないわ……っ!)
「そ、その……大変不甲斐なく……少々、気分が……」
「まあ、それは大変ねぇ? やはり先ほどの頭皮が痛むのかしら?」
「い、いえ……」
セレナ様はふっと身を乗り出し、意地悪な姑のごとく、ニヤリと唇を歪めて私を覗き込んできた。
「そうなの、じゃあどこが悪いの? ヴァルツァー家は医療の家系よ。次期侯爵夫人の座を狙うほどの才女なら、自分が今どんな状態で、どんな薬を処方されたいか……当然、薬の『有効成分名』で答えられるわよねえ? 言ってみなさい?」
(これはテストだ……! 間違えたり、あるいは『お腹が痛いです』なんて曖昧な主訴を言ったら、即座にこのお屋敷を叩き出される最終試験なんだわ……っ!!)
完全にパニックに陥った哀れな私は、涙を浮かべながら、これまで村医師として脳内に叩き込んできた医学知識を、文字通り早口オタク全開で叫んだ。
「――っ、少し、胃粘膜への過度なストレスによる疼痛(胃痛)が認められます……っ! 処方は、即効性のある制酸作用を目的とした『炭酸水素ナトリウム』、および持続的な胃粘膜保護と制酸を目的とし、『メタケイ酸アルミン酸マグネシウム』、さらに『合成ヒドロタルサイト』を適切な比率で織り交ぜた、複合胃粘膜保護剤の速やかな経口投与がよろしいかと存じます……っ!!」
私は一気に言い切ると同時に、ぎゅっと目を瞑って「身の程を知れ!」というお叱りを待った。
一瞬の沈黙。温室を静寂が包む。
次の瞬間――
「――ぶっ! ふふ、あははははははは! 成分名!! 本当にガチの有効成分名で答えたわ、この子!!」
温室に響き渡ったのは、冷酷な宣告ではなく、セレナ様の豪快極まる大爆笑だった。
彼女は上品な貴婦人の仮面を完全にどこかへ放り出し、お腹を抱えてケラケラと笑い転げている。
「あははは! 面白すぎるわアリアちゃん! ちょっと意地悪な姑の真似をしてからかっただけなのに、そんな大真面目な顔で、しかも完璧な配合の胃薬の成分をまくし立てるなんて! 完璧よ、大正解! しかも炭酸水素ナトリウムの即効性まで考慮するなんて、さすがレオンが惚れ込んだだけのことはあるわ! 合格よ、合格! 自信を持ちなさい!」
「え……? ええっ……!?」
お腹を抱えて涙を拭っているセレナ様を前に、私は狐につままれたような顔で固まるしかなかった。
冷徹な最高教授だと思っていたものは、ただの「お茶目でちょっとオタク気質な未来のお義母様」による、盛大ないたずらだったのだ。
あまりの安堵と恥ずかしさで、私の胃の痛みは、さっきの成分たちのおかげではなく別の意味で消し飛んでいくのだった。




