杜撰なヒロインと、冷徹なる臨床解剖
実習が終わった後、レオンハルト様が私の手を引き、わざわざ私室の前まで送り届けてくれた。そして、彼がそのまま平然と私の真横の部屋(主寝室)へと入っていく姿を、後ろから尾行してきていたエリシアにバッチリと目撃されてしまったのだ。
(エリシア、違うの……! たぶん、この部屋割りに深い意味なんてないのよ……!)
しかし、私が彼の「パートナーの聖域(主寝室の対)」を陣取っている事実がエリシアに露呈してしまった。あの場ではレオンハルト様の圧倒的な威圧感が効いていたのか、奇跡的に何も言ってこなかったエリシアだったが――翌日、案の定、彼女は怒り狂って私の部屋へと襲来した。
ガチャガチャ、ガチャガチャッ!!!
突然、狂ったように部屋のドアノブが激しく回される音が響き、私の緊張は最高潮に達する。
「私よ! 中にいるんでしょ!? 泥棒女、早くここを開けなさいよ!」
間違いなく、怒り心頭のエリシアの声だ。
ここでドアを開ければ、どんな暴挙に出るかは明白だった。けれど、この恐怖を先延ばしにしてビクビクと怯えて過ごすくらいなら、今ここで彼女の怒りを発散してもらった方が精神的にまだ楽かもしれない――そう思い、私は震える手で鍵を開けた。
「――この、あばずれがっ!!」
開口一番、エリシアは怒鳴り声を上げながら、私の胸元を思いっきり突き飛ばした。抵抗する間もなく、私は大理石の床に激しく尻もちをつく。
「ちょっと、何よこれ! どうして、ただの出来損ないの貴方が、レオンハルト様の『隣』を陣取っているのよ!? ここは私の部屋よ!」
「そんなこと……私に聞かれても……っ。案内された部屋に入っただけで……っ」
「口答えしないで!!」
ヒステリックに叫ぶと、エリシアは床に倒れ込む私に馬乗りになり、私の髪を力任せに引っ張った。頭皮が引きちぎれそうな痛みに全身の血の気が引き、身体がガタガタと震え出す。涙が視界を遮り、幼い頃からの恐怖がフラッシュバックして身が竦んだ。
「いいから、今すぐ汚い荷物をまとめて、この侯爵家から出て行きなさいよ!」
また無茶苦茶なことを言い出した。この広大な侯爵領の敷地から、身一つで私が逃げ出せるわけがない。それに、もし私がこの名家を勝手に飛び出せば、実家が社交界から大バッシングを受ける。実家を誰よりも恐れているエリシア自身、そんなことになれば自分の婚約が破談になることくらい分かるはずなのに、今の彼女は完全に嫉妬で盲目になっていた。
「いい? 今日から私がこの部屋を使うから、まずは貴方が……」
コン、コン。
その時、寝室の扉を静かにノックする音が響いた。
エリシアは弾かれたように私から飛び退くと、瞬時に髪を整え、何事もなかったかのように鏡の前を陣取った。私は痛む頭皮を抑えて小さく溜息をつき、涙を拭って乱れた髪を大急ぎで整える。
「……は、はい。どうぞお入りください」
私が声を振り絞って応じると、扉が開いた。そこに現れたのは、ヴァルツァー侯爵夫人であるセレナ様、そして――その後ろから、すでに殺気すら孕んだ冷徹なオーラを纏って顔を出した、レオンハルト様だった。
「どうしたのかしら? 随分と大きな声が響いていたけれど……」
セレナ様が不審そうに眉をひそめた瞬間だった。
エリシアはまるで、悲劇のヒロインのスイッチが入ったかのように、ボロボロと大粒の涙を流してセレナ様へと泣きついたのだ。
「聞いてください、お義母様……っ! アリアが、私がレオンハルト様の婚約者候補だからって嫉妬して……私を虐めようとするんです……っ! 床に突き飛ばされて、出て行けって脅されて……っ!」
完璧(と本人は思っている)な被害者の演技。
そのあまりにも醜悪な嘘に、セレナ様の鋭い視線が私へと向けられた。
「……本当ですか、アリア嬢」
「私は……っ」
私はグッと奥歯を噛み締め、俯いた。
肯定など絶対に痛くない。けれど、ここで「エリシアが嘘をついています」と叫んだところで、何の証拠もないのだ。いつも実家では、こうして私が悪者にされ、誰も私の言葉を信じてくれなかった。きっと、この高貴な侯爵家でも同じだ。私はまた、信じてもらえないのだ。胸が締め付けられるような悲しみと絶望に、私はただ身を竦める。エリシアは背後で、勝ち誇ったかのような歪んだ微笑を浮かべていた。
部屋全体に、いたたまれない沈黙が広がる。――だが。
「……なるほど。少し、臨床医学的な観点から確認させてもらえるかしら」
セレナ様が、ふっと冷ややかな、けれど完全に「研究者」の笑みを浮かべて一歩前に出た。
「エリシア嬢。貴女、アリア嬢に『床に突き飛ばされた』と言ったわね? ですが、貴女のシルクのドレスの背面には、大理石の塵一つ付着していない。逆に、アリア嬢のスカートの後ろ側は激しく擦れ、衣服の繊維が床との摩擦で毛羽立っているわ。これ、物理法則に反していないかしら?」
「え……? あ、それは、その……!」
エリシアの顔が引き攣る。さらに、横から音もなく歩み寄ったレオンハルト様が、私の前にそっと膝を突き、その細い指先で私の頭髪の生え際を優しく検分し始めた。その瞳は、怒りで完全に据わっている。
「お母様、視診を終了します。アリアの頭皮に広範囲の微小血管の破裂による発赤(赤み)を確認。さらに数条の毛髪の異常脱落を発見しました。……外部から『上方向への強い牽引力(髪の引っ張り)』が働いたことは明白です。一方で、エリシア嬢の指先には、アリアの髪の細い繊維が数本、爪の間に綺麗に残ったままですね」
「な、なな、何を見て……っ!?」
「僕たちを誰だと思っているんだい?」
レオンハルト様は立ち上がると、エリシアを完全に見下ろす氷点下の笑みを浮かべた。
「我がヴァルツァー家は、嘘や演技といった不確定要素を最も嫌う。人体に刻まれた『ファクト(事実)』は決して嘘をつかない。……エリシア嬢、君の虚偽申告は、我が家の診断能力を著しく侮辱するものだ。実に下劣で、かつ知性を疑う茶番だね」
「あ、あら……? お義母様……?」
助けを求めてセレナ様を見るエリシアだったが、セレナ様は扇で口元を覆い、心底呆れ果てたような冷たい目をしていた。
「ヴァルツァー家の次期夫人たるもの、せめて問診で即座に露呈するような、低レベルな虚偽のカルテ(嘘)を作成するのはおやめなさい。見苦しいわ」
「御意、お母様」
私の言葉など、信じてもらえないと絶望していた私は、目の前で繰り広げられた「一瞬の完全論破」に、ただただ呆然とするしかなかった。
レオンハルト様は、怯える私を安心させるように、ひどく過保護で甘やかな手つきで私の頭を優しく撫でる。
「痛かったですね、アリア。僕のテリトリーで君に傷を負わせる不届き者がいるとは……僕の徹底的な管理不足です。今すぐ僕の私室(隣の部屋)で、付きっきりで頭皮の治療(ついでに僕の愛をたっぷりと処方)を行いましょう」
「ひゃいっ!? い、いえ、そこまでは……っ!」
嘘が筒抜けになり、怒りと恥辱で顔を般若のように真っ赤にさせているエリシア。しかしそんな妹の視線など1ミリも気に留めないレオンハルト様は、妹のことなどお構いなしに私に微笑みかけている。
(エリシアの策が通じない……!? この親子のファクトチェックが恐ろしすぎるわ……っ!)
ハイスペックすぎる侯爵親子の前で、エリシアの浅薄な悪知恵はただの「自爆因子」でしかなく、私の胃壁は別の意味(レオンハルト様の過度な甘やかし)で悲鳴を上げ始めるのだった。




