静脈穿刺の罠と、天才の無慈悲なる白衣
ヴァルツァー侯爵家に足を踏み入れてから、2週間が経った頃。
それまでグレイス主導で行われていた生ぬるい(そして手柄泥棒し放題の)実習に、ついに決定的な「転機」が訪れた。
「おはようございます。今日の修業は、僕が直々に担当しましょう。簡単な実地研修ですので、気楽にお付き合いください」
白衣をまとったレオンハルト様が、清廉でありながらもどこか絶対的な捕食者のオーラを漂わせて、こちらに歩み寄ってくる。
「レオンハルト様――ッ!! 嬉しいですわ、本日は一日中ずっとお側にいられるのですね!」
エリシアは待ってましたとばかりに瞳を輝かせ、彼にすり寄ろうとした。
だが、その背後に立つグレイス先生の顔色は、一瞬で土気色に変わっていた。彼女の主導ではないということは、これまでのように私の手柄をエリシアに横流しする「改ざん」が一切通用しないことを意味する。グレイスの額から、じっとりと冷や汗が流れ落ちた。
レオンハルト様はエリシアの接近を流れるような身のこなしで制すると、静かに診察椅子に座り、袖をまくり上げた。その傍らのトレイには、鈍く光る「注射器」が添えられている。
「今日はお二人の『注射器の扱い』――つまり静脈穿刺の手腕を拝見します。医療の基本ですからね。僕も幼い頃、両親の腕で何度も練習させられたものです。多少差し間違えて神経を傷つけても我が家の医療術で治せますから、どうぞ、遠慮なく僕の腕に打ってください」
「「えっ……!?」」
その瞬間、エリシアの瞳から完全に光が消え、グレイスと見事なハモリ声で絶叫した。
トレイにあるのは、どう見ても素人が扱っていい代物ではない。私は猛烈な焦燥感に駆られた。もしエリシアが彼の動脈をぶち抜いて大出血でもさせたらどうしよう、と脳裏に最悪の術後合併症がよぎる。これまでの観察からして、妹が注射器の「外筒」と「内筒」の区別すらついているか怪しいのは明白だった。
「では――」
レオンハルト様は、極上の、けれど凍りつくほど冷ややかな笑みを浮かべて振り返った。
「まずは、王都で『グレインフィール家の才女』と名高い、エリシア嬢からどうぞ。さぁ、僕の腕を貸しますから、好きな解剖学的部位に針を刺すといい」
彼は迷いなく、「自称・才女」の前に無防備な腕を差し出した。
エリシアは一気に顔を青ざめさせ、悲鳴を上げるように身体を引く。たまらずグレイスが震える声で助け舟を出した。
「そ、小侯爵様! エリシア嬢は本日、偶然にもお手を怪我されておいでなのです! 注射器のような精密な器具を扱うのは、また別の日に致しませんか……?」
その見え透いた嘘に、レオンハルト様の琥珀の瞳が細められた。
「手を……? それはいけませんね。医師として見過ごせません、今すぐ僕に診せてください。腱の損傷か、あるいは神経症状か。今ここで僕が切開して確認しましょう」
「あ、あの……わたくし……!」
今すぐここで解剖されかねない勢いのレオンハルト様に、エリシアとグレイスの首はどんどん絞まっていく。
「出来ない」と白状すれば、これまで才女としての信頼が揺らいでしまう。逃げ道を完全に塞がれ、エリシアはガチガチと奥歯を鳴らして口ごもっていた。
見かねた私は、小さくため息をついた。ここで妹が不敬罪、あるいは傷害罪で捕まっては我が家が取り潰されてしまう。私は仕方なく、妹を助けるために一歩前に出た。
「し、小侯爵様。よろしければ、私が先に実践してもよろしいでしょうか……?」
その瞬間、レオンハルト様の表情に、春の陽だまりのような優しい笑みが戻った。
「では、エリシア嬢の手の治療は後回しにして、アリア、どうぞ」
「……っ、はい。小侯爵様、利き手はどちらですか?」
「左利きだ」
「それでは、右腕を失礼いたします」
私は彼の前に膝を突き、その無駄のない筋肉が引き締まった美しい右腕を取った。衣服の袖をさらに上まで折ると、駆血帯を彼の前腕に素早く、かつ的確な圧で巻きつけて縛る。
「手を握って、軽く親指を中に入れていただけますか?」
彼が素直に指示に従うと、皮膚の下から見事な走行を誇る正中皮静脈が浮き上がってきた。私は目視と触診で慎重に血管の弾力を確かめる。よし、ここなら逃げない。
アルコール綿で中心から外側へ向かって円を描くように丁寧に消毒を施すと、私はビタミン剤の入った注射器を手に取った。
「少しチクっとしますよ」
内腔の斜面(刃面)を上にした注射針を、皮膚に対して約15度の角度で、一切の迷いなく血管へと滑り込ませる。
スーッと針先が進み、内筒にわずかに赤い血液が逆流した。確実に静脈内に入った証拠だ。
私はすぐに注射器の角度を水平に寝かせ、針先を完全に固定したまま、プランジャーをゆっくりと均等な圧で押し込んでいく。薬液が彼の身体へと静かに注入されていくのを確かめながら、左手で素早く駆血帯の結び目を解いた。
薬液をすべて注入し終えると同時に、滅菌ガーゼを針先に添えて、一瞬で針を抜く。
「そのまま、揉まずに5分ほど強めに押さえておいてくださいね」
仕上げに注射痕の上から防水の絆創膏をピシッと貼り付け、私はようやく息を吐いた。
「い、いかがでしたでしょうか……?」
恐る恐る顔を上げると、レオンハルト様は感嘆したように目を細め、眩いほどの笑顔で私の顔を覗き込んでいた。
「――完璧です。皮膚への刺入角度、静脈への的確なアプローチ、そして駆血帯を外すタイミング。どれをとっても、何年も臨床を経験したベテラン医師のそれだ。やはりアリア、君は噂に違わぬ、いや、噂以上の素晴らしい手腕をお持ちだ」
「ありがとうございます……っ」
私はホッと胸を撫でおろし、彼の側から一歩下がった。
すると、レオンハルト様は私に向けた極上の笑みをそのままたたえたまま、ゆっくりと、温度のない視線をエリシアへと転向させた。
「では、基本的な静脈穿刺すら行えないエリシア嬢は、本日の実技研修に参加する資格はありませんね。そこに立って、僕とアリアの邪魔にならないよう、壁の飾りとして見学でもなさってください」
「はい……」
ふっと彼の声のトーンが、ゴミを見るかのように低くなったのは私の気のせいだろうか。
彼は私の手を引き、さらに高度な医療器具が並ぶ奥のブースへと私を優しくエスコートしていく。背後では、顔を真っ赤にして怒り狂い、髪を逆立てんばかりに私を睨みつけているエリシアの気配がした。
(そんな恐ろしい顔で私を睨まれても……。私はあなたの代わりに針を刺して、あなたの無知を隠してあげたのだけど、どうしろっていうのよ……)
妹のために身を挺したはずなのに、何をしても妹を激怒させる結果にしかならない。
私は心の中で深くため息をつきながら、レオンハルト様という「完璧すぎて逆に恐ろしい試験官」を前に、この花嫁修業の難易度がどんどん跳ね上がっていくことに、ただただ圧倒されるのだった。




