深緑の檻、不実の恋心は溢れ出す
私が最悪の結末を覚悟して身を竦めていると、レオンハルト様はゆっくりと顔を上げた。しかし、その表情は「幻滅」とは程遠く、ひどく眉を下げて、これ以上ないほど申し訳なさそうに私を見つめていた。
「……申し訳ありません、アリア嬢。すべては僕の、僕の完全な失策です。ヴァルツァーとしての傲慢さゆえに、まさか自分が名前すら名乗っていなかったとは思いもしませんでした。貴女にこれほど不条理な恐怖を与えてしまうなんて……」
「ええっ!? あ、あの、とんでもありません! 私の方こそ、名目上は婚約者候補であったにも関わらず、小侯爵様の御尊顔すら存じ上げず、大変な勉強不足で……っ」
私のあまりの慌てぶりに、レオンハルト様は一瞬呆気に取られたのち、堪えきれないといった風に低く、ひどく甘やかに ──フフ、と喉を鳴らして笑った。
「勉強不足? ……貴女はむしろ、勉強のしすぎです。僕がとやかく言えた義理ではありませんが、どうやらお互いに、とんでもない掛け違いをしていたようですね」
彼は私の両手をもう一度、今度は壊れ物を扱うかのように指先ひとつひとつを優しく包み直した。顔を上げ、私に向けられたその唇には、先ほどまでの冷徹な鉄面皮が嘘のような、年相応の悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「それにしてもアリア嬢、貴女は僕がどこの馬の骨かも分からない不審な男だったというのに、あのプロポーズを受け入れてくださったのですね? ……それほどまでに、僕のことを『素敵な紳士』と認め、心に留めていてくださったとは。これほど光栄な誤算はありません」
「あ、あの……っ、ですから! 私がお慕いしたのはあの夜の貴方様であって、このヴァルツァー家との縁談は、最初から妹のエリシアのものだと決まっておりまして……ひゃぁっ!」
必死に壁を背にして叫ぶ私の両肩を、レオンハルト様は逃がさないと言わんばかりに大きな手で、優しく、けれど絶対に拒絶を許さない強さで包み込んだ。彼の美しい瞳が、至近距離で歪む。
「悪いけれど、グレインフィール伯爵家の勝手な意向と、僕の『妻を選ぶ意思』は明確に、それこそ天と地ほどにかけ離れている。……アリア嬢、この部屋に君を連れてきて、鍵を掛けた。貴女なら、その意味がわからないはずがないでしょう?」
レオンハルト様が視線で指し示したのは、この部屋の奥にある、重厚なマホガニーの扉――隣室へと直通している『コネクティングドア』だった。
(……あ……そんなこと……)
その瞬間、私の頭の中に、貴族社会の厳格な「部屋割り」の常識が蘇り、血の気が引いていく。
一般的に、次期当主である小侯爵の「真隣の部屋」。それは、未来の侯爵夫人として迎えられる、彼の生涯のパートナーだけが立ち入ることを許される絶対的な聖域(主寝室の対)なのだ。
この合同花嫁修業の場において、その部屋に案内されるべきなのは、表向きの婚約者候補であるエリシアのはずなのに。何故だか、私がこの場所に案内され、彼に私室へと閉じ込められている。
「……気づいたようですね」
私の唇が戦慄き、思考が完全にフリーズしたのを見計らったように、レオンハルト様は満足げに目を細めた。彼は私を包み込むようにさらに一歩踏み込み、その綺麗な指先で、私の赤くなった耳朶へとそっと触れる。
「形だけの花嫁修業で終わらせるつもりなら、君をわざわざ僕のテリトリーに置いたりはしない。――いいですか、アリア嬢。僕の隣に立つのは、後にも先にも君だけだ。それを今から、その身体と心にたっぷりと教え込んであげるための修業ですよ?」
低く濡れた声でそう告げる彼の真意が、独占欲が、あまりにもストレートに伝わってきて、私は悲鳴を上げることもできずにただ真っ赤になって固まることしかできなかった。
「しょ、小侯爵様……な何を……」
私が混乱のあまり必死に弁明しながら後ろへ下がると、レオンハルト様はその隙を見逃さず、じわじわと私との距離を詰めてくる。逃げ場をなくした私の背中が、静かに部屋の壁へと当たった。
いわゆる、壁際への追い詰め(壁ドン)の形になり、退路は完全に断たれる。
「……アリア嬢。一つだけ、教えてください」
レオンハルト様が少しだけ視線を下げ、私の耳元に心地よい低音を忍ばせる。
「貴女の中で……僕は、今でもあの夜の『素敵な紳士』のままですか?」
カッと顔に火がついたように熱くなる。
至近距離から浴びせられる彼の体温と、新緑の双眸をじっと射抜く瞳の強烈な熱量。いつまでもこの心臓に悪い距離感に慣れることなどできず、私は完全に挙動不審になってしまう。
彼を、あの夜の愛しい思い出を否定することなど、私に出来るわけがない。けれど、ここで肯定してしまったら、妹の婚約者候補である彼に対して、あまりにも不実で不謹慎なことになってしまうのではないか。私は、彼との恋心を永遠に終わらせるために、あの思い出に操を立てるためにここへ来たというのに……!
彼の端正な顔を直視できなくなり、私は顔を背けるように身を左へと捩った。少しだけ背を丸め、彼の広い胸元から逃げるように身を竦める。けれど、彼の大きな体躯に包み込まれるようなこの空間はあまりにも狭く、私の心臓は早鐘を打って、胸の裏側が痛いほどに脈打っていた。
これほど真っ直ぐに求められて、やはり、嘘をつくことなど出来なかった。
「…………い、今はっ、今は答えられません……」
蚊の泣くような声で絞り出したそれが、私の精一杯の抵抗だった。
けれど、赤く染まった耳たぶも、激しく上下する華奢な胸元も、私の不器用な恋心をこれ以上ないほど雄弁に物語ってしまっていることに、私はまだ気づいていなかった。
(今は答えられない=嫌いではない。むしろあの夜の男として深く意識している)
アリアのあまりにも愛らしい「拒絶(仮)」に、レオンハルトの胸の奥で、歪んだ加虐欲と独占欲がさらに大きく鎌首をもたげた。
「……そうですか。ならば、その『今』がいつになるのか、この修業期間中にじっくりと僕が暴いて差し上げます」
私が彼への恋心を完全に終わらせるために足を踏み入れた侯爵邸。
しかしそこは、一度捕らえた獲物を決して逃さない、冷徹で過保護な天才ドクターが仕掛けた、甘やかな深緑の檻そのものだった。




