天才の華麗なる自爆
案内された私室は、さすが格式高い侯爵家が用意した、息を呑むほど立派な淑女のための空間だった。
洗練された色彩、職人のこだわりが詰まった極上の調度品。一人で使うにはあまりにも広く贅沢なその部屋は、今まで実家の独房に閉じ込められ、「いつ売られるかわからない」という恐怖の中にいた身にとっては、感動を通り越して目眩がするほどの輝きを放っていた。
「こ、こんな立派なお部屋、私が使ってもよろしいのですか……?」
「気に入っていただけましたか? 貴女のために完璧に整えてお待ちした甲斐がありました。……しかし、それほど驚かれるとは。グレインフィール伯爵家では、一体どのような暮らしをされていたのです?」
「私は独房……あ、いえ、それなりに風通しの良い、こじんまりとしたお部屋にいたのですが、こ、ここまで立派なお部屋は初めてで……」
あまりの至れり尽くせりな環境に気圧され、危うく「独房に閉じ込められていた」という要らぬ実態を口走ってしまいそうになった。家族に冷遇されていた惨めな現実など、目の前の高貴な彼が知る必要などない。
しかし、レオンハルト様は部屋に到着してからも、なぜか私の手を片時も離そうとはしなかった。私の手提げバッグをそっと机に下ろすと、彼はそのまま私をじっと見つめ、静かに、けれど逃がさないように間合いを詰めてきた。
「さてと……。アリア嬢、そろそろ『本題』を突き合わせましょうか」
「――っ! あの……小侯爵様……?」
彼は私の華奢な肩を引き寄せ、有無を言わせぬ正面から向き合わせた。その鋭くも深い瞳は、あの夜、月光の下で私を見つめていた「あの紳士」と全く同じ熱を孕んでいる。
「あの夜、貴女は僕の胸の中で、確かに『プロポーズをお受けする』と答えてくださいました。僕だけを信じて待っている、と。……なのに、なぜいざ顔合わせの場になった途端、あんな妹に僕を譲るような、辞退の申し出をされたのですか? 一体何故です?」
いきなり核心を突き刺すような質問をされ、私はパニックになりながら、掴まれた手を引いて後ろへと後退しようとした。しかし、彼はそれを許さない。グイッと力強く腕を引き寄せられると、私の腰には彼の逞しい腕が滑り込み、一瞬で抱き寄せられてしまった。
「あ、あの……! 私には、何のことだかさっぱり……っ」
「とぼけるつもりですか? 僕を袖にするはずがないとおっしゃっていたのに、貴女はもう、僕に捧げたあの夜の言葉を覆すというのですか?」
「そ、そんな……滅相もないことですわ! 私はただの出来損ないの姉で、きっとお会いしたのは妹の――」
ガサッ、と不吉な音が部屋に響いたのは、まさにその時だった。
レオンハルト様が案内がてら机の上に置いてくれた私の荷物が、不意にバランスを崩して滑り落ちたのだ。床に散らばる私のみすぼらしい私物。だが、その中から――場違いなほど上質で、気高い香りを纏った布地が、まるで隠しきれない真実のように滑り出て、床に広がった。
それは、あの運命の夜会、寒さに震える私を彼が優しく抱き寄せ、その肩にそっと着せてくれた「彼自身の上着」だった。
(あっ――――!)
私は息を呑み、咄嗟にそれを隠しようと手を伸ばした。
だが、それよりも早く、レオンハルト様の鋭い視線が床の上着へと突き刺さる。彼はゆっくりと、けれど獲物を完全に追い詰めた猛獣のような、酷く妖艶な笑みを浮かべて私へと向き直った。
「……ほら、やはり。あの月明かりの庭園で、僕が優しく連れ出した愛しい令嬢は、間違いなく貴女だ」
レオンハルト様はゆっくり、またゆっくりと私との距離を詰め、逃げ道を塞ぐように私の背後の壁に手を突いた。彼の熱い吐息が、私の赤く染まった耳朶をかすめる。
「僕を待ってくれると、あの腕の中で約束してくれたではありませんか。証拠なら、今こうして目の前に転がっている。――さぁ、アリア嬢。何故今になって、僕との婚姻から逃げ出そうとするのか、今度こそ僕の目を見て、本当の理由を聞かせていただきましょうか?」
腰に回された腕は鉄のように堅く、びくとも外れない。彼の鋭い視線からどうしても目を逸らすことができない。いたたまれない気持ちと混乱で頭の中がぐるぐると巡る。
――違う。違います、小侯爵様!
私だって、あの夜の紳士をお慕いしている。心から愛している。けれど、それは「ヴァルツァー家との婚約」は妹エリシアのものであり、私は実家を、そして自分自身の立場を破滅に追い込んででも、あの夜に出会った『名もなき紳士』との約束に生きようと覚悟を決めたからだ。
だからこそ、あの紳士への操を立てるために、私はヴァルツァー家との縁談を命がけで断ろうとしたのだ。
まさか……あの夜、私を地獄から救ってくれた私の初恋の人が、この目の前の恐るべきヴァルツァー小侯爵様だなんて、夢にも思っていなかった。
これ以上言い訳を思いつけず、私は観念して視線を落とし、心の中にあった本当の真実を告白した。
「……申し訳ありません……っ! 私は、あの夜の『素敵な紳士』が、どこのどなたなのか、お名前を存じ上げなかったのです……! それに、この侯爵家との縁談は、我が家では早々に『妹のエリシアのもの』だと両親が決めておりましたので……。私は、あの夜の貴方との約束を守るために、ヴァルツァー家との縁談から身を引こうとしただけで……まさかご本人が現れるなんてっ」
「――――えっ???」
私の必死の告白を聞いた瞬間、レオンハルト様はまるで彫刻のように完全に凝固した。
数秒の前、世界を支配していたはずの最強の小侯爵の威厳が、音を立てて崩壊していく。
「い、今、なんと言いました……? 僕が誰だか、分からなかった……? 嘘でしょう?」
「小侯爵様のお姿を拝見したことがなく、申し訳ありません。無礼を働きました……」
「……っ! じゃ、じゃあ、あの夜、貴女は僕にもの凄く熱心に、完璧な医学の知識を語ってくれたじゃないですか! あれは僕が『ヴァルツァー(医師の最高峰)』だと知っているから、僕に合わせて話してくれたわけでは……」
「えっ!? も、申し訳ありません……っ! あれは、高貴な貴族の方であれば、それくらいの基礎医学の知識は嗜みとして当然修めているものだとばかり……! まさか、医学界の頂点であられる本物のヴァルツァー小侯爵様を前に、知識をひけらかしていたなんて……! ああ、なんという不敬を……どうお詫び申し上げたらいいのか……っ」
恥ずかしさのあまり両手で顔を覆った私だったが、ふと気付くと、腰を抱いていた彼の力が完全に抜けていた。
レオンハルト様はゆっくりと私から身体を離すと、そのまま信じられないものを見る目で自分の両手を見つめ、やがて、ガシッと自分の頭を抱え込んで絶望の声を漏らしたのだ。
「……僕が、名前を名乗っていなかった。そうか、思えば僕はこれまで対面したのはあの珍獣(エリシア嬢)だけだったな。平民として5年も外で暮らしていた彼女が、僕の顔を知っているはずもない。なのに……なのに僕は、彼女が僕の正体を知った上で両思いになったと盛大に勘違いして、『アリアは僕を愛している!』と独りで勝手に浮かれて、バカみたいに親友にノロけて、ドヤ顔で外堀を埋めてここに連れ込んできたというのか……!?」
絵に描いたように激しく落ち込み、ブツブツと信じられないほどの早口で猛烈な自己嫌悪(アイデンティティ完全崩壊)に陥り始めたレオンハルト様。
「え? あの……小侯爵様……?」
先ほどまでの威風堂々とした冷徹な面影はどこへやら、彼は床に崩れ落ちんばかりの勢いで、魂が口から出そうなほどの深い深い大溜息を吐き出している。
しかし、私はそんな彼の様子を見て、完全に別の勘違いを深めていた。
(……あ、ああっ、やっぱり! 医学の本家本元を前にして、あんな浅薄な知識を自慢げに語るような不気味な女、気色悪くて幻滅されてしまったんだわ! その上、彼の名前すら気づかなかったなんて……。きっと、今からものすごく怒られて、このお屋敷を追い出されてしまうんだわ……!)
馬車の中でエリシアに言われた「あんたは日陰者らしく黙っていればいいのよ」という言葉が頭をよぎる。馬鹿正直に本当のことを話してしまった己の不甲斐なさを激しく呪いながら、私は、これから下されるであろう「恐ろしいお叱り」に備えて、ぎゅっと身を縮めて涙目を堪えるのだった。




